すでに私は「心経」の肝腎要となっている、いや、仏教の根本思想であるところの「色は即ち是れ空、空は即ち是れ色」(色即是空、空即是色)ということについて、一応お話ししておきました。そしてそのとき私は、一くちに「空」といっても、その空は「般若の空」で、有(存在)に対する無(非存在)というような、そんな、単純な空という意味ではない、ということをお話ししておきました。
ところが、これについて古人はこういう貴い言葉を残してします。
智慧と慈悲
「色即是空と見れば、大智を成じ、空即是色と見れば、大悲を成ず」
と、いっておりますが、これは非常に考えさせられる言葉です。というのは、いったいここにいう大智とは、大きい智慧、すなわちほんとうの智慧のことです。次に大悲というのは大きい慈悲、すなわちほんとうの慈悲のことです。仏教では、その智慧も慈悲も、共に空という母胎から産まれてくるものだというのです。いったい世間のものは、みんな十人十色で、どれだけ大勢の人が集まっていても、寸分たがわぬ、同じ人間は、一人もありません。「似たとはおろか瓜二つ」などといいますが、よく見れば、どこかきっと違っている所があるのです。単に、顔や形のみではなくて、人間の性質も気心も、また文字通り、千差万別です。したがって、病に応ずる薬が、それぞれあるように、人間の身の悩み、心の悶えを、救う仏にもまたいろいろ変わった相(すがた)あるわけです。
「釈迦、阿弥陀、地蔵、薬師と変れども 同じ心の仏なりけり」で、結局、数あるもろもろの仏は、ことごとく皆同じ心、すなわち慈悲という精神、大慈大悲のこころの顕れにほかならぬのであります。ところが、慈悲といっても、それは決して智慧のない慈悲ではないのです。仏教では、これを「愛見の大悲」といっておりますが、ほんとうの慈悲は、盲目的な愛、母牛が仔牛を甜めるような、そんな愛ではないのです。真の智慧によって、裏づけられているほんとうの愛が、すなわち仏教の慈悲なのです。だから、少なくとも仏教では、慈悲と智慧とは二にして一だというのです。今日、仏といえば、誰しも、すぐに観音さま、地蔵さま、阿弥陀さまといったような、いかにも微妙端厳(みみょうたんごん)な、やさしい容姿(すがた)の仏を思い起こします。しかし、仏さまのうちには、不動明王というような、見るからにいかにも恐ろしい仏もあります。「あれでも仏さまか」と疑うほどの恐ろしいお容貌の仏さまがあるのです。もっとも、同じ観音さまでも、やさしい顔や相の仏さまだ、とばかり思っていると、中には「馬頭観音」とて、不動明王にも、勝るとも劣らぬ、恐ろしい姿をしている観音さまもあります。武蔵野などを散歩していますと、よく路傍の石碑にきざんである、この仏のおすがたを見うけるのですが、とにかく、仏さまなら、もう阿弥陀如瑯だけでよい、大日如来だけでよい、釈迦如来だけでも結構なようですが、衆生の機根万差(きこんまんじゃ)ですから、これを救う方にもいろいろな形をした仏があるわけです。仏教では、三世に亙り、十方に遍く、たくさんの仏さまが、おられると説いているのです。けだし、これは果たしてどんな意味なのでしょうか。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)