第四章・覚醒の時代 連載第八十三話 般若心経

病室の窓から、桜が、満開だった。
立川病院の付近は、桜の木が、たくさんあった。妻の病室の窓からも、その桜が、見えていた。妻は、最後の数日、その桜を、見ていた。
四月になれば、息子が、四歳になる。保育園か、幼稚園に、上がる。その姿を、夢に見ながら、桜を、見ていた。
息子の誕生日は、三月だった。妻が逝った日には、もう、四歳になっていた。
処置室で、保本先生が、心臓マッサージを続けていらした、あの三十分。四歳の息子は、終始、無言だった。ずっと、その様子を、眺めていた。何を見ていたのか、何を感じていたのか、四歳の子供の中で、何が、起きていたのか。本人も、今となっては、覚えていないかもしれない。けれども、確かに、その場に、立っていた。母の最後を、ずっと、見ていた。
家に連れて帰り、霊前を、整えた。
若い夫は、般若心経を、唱えた。
手元には、高神覚昇先生の『般若心経講義』が、あった。闘病期の書店通いの中で、いつか、手にしていた一冊だった。漢方の本や、丸山ワクチンの本や、免疫療法の本に混じって、若い夫は、その本を、手にしていた。なぜ、その本を、選んだのか。それも、もう、覚えていない。けれども、その本は、若い夫の手元に、あった。
二百五十字前後の、短いお経だった。色即是空、空即是色。形あるものは、空である。空は、形あるものである。若い夫は、その短いお経を、霊前で、唱えた。
そして、傍らで、四歳の息子が、おりんと、木魚を、叩いた。
上手に、叩いた。
誰かが、教えたわけではない。父が、これを叩きなさい、と、言ったわけでもない。四歳の子供が、当然のことのように、おりんと木魚を手に取って、父のお経のリズムに、合わせて、叩いた。
若い夫は、その音を、聞いていた。
二百五十字の短いお経を、唱えながら、若い夫は、何かに、触れた。それが何だったのか、その時点では、はっきりとは、わからなかった。けれども、確かに、何かに、触れた。
以降、若い夫は、死というものを、それほど、恐れなくなった。
それは、すぐに、明確な形になったわけではない。けれども、何かが、変わった。妻の肉体は、もう、ここにはない。けれども、妻という存在は、消えていない。どこかに、ある。あの病室の窓から見えていた、桜のように、形を変えて、どこかに、ある。そういう感触が、その夜、若い夫の中に、降りてきていた。
近年、量子論などの進展の中で、般若心経の言葉が、現代の物理学と、合致してくることが、明らかになってきた。仏教が、二千五百年前から、二百五十字の中に書いていたことを、現代の科学が、ようやく、追いついてきている。仏教の神髄の凄さを、改めて、思う。
けれども、それは、四十年経った今の、振り返りである。あの夜、霊前で、般若心経を唱えていた若い夫は、量子論など、知らない。ただ、二百五十字の短いお経を、唱えながら、傍らの四歳の息子の、おりんと木魚の音を、聞いていた。
息子は、上手に、叩いた。
本人は、今となっては、全く覚えていないかもしれない。けれども、四歳の彼の、深層の中に、確かに、何かが、あった。
病室の窓の、桜は、満開だった。処置室の、四歳の息子は、終始、無言だった。家の霊前の、おりんと木魚の音は、上手だった。二百五十字のお経の中には、宇宙が、あった。
それが、あの日と、あの夜の、すべてだった。
生かされて、今を、存在する。
あの夜、霊前で般若心経を唱えていた若い夫と、傍らでおりんと木魚を叩いていた四歳の息子を、四十年経った今、自分は、確かに、覚えている。
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