日本にはすでに主要な資源を採る鉱山はなくなりました。日本ほどの工業国が鉱山を持たないというのは不思議なことですが、事実です。昔の日本は金属材料の輸出国で、特に中世の日本では中国地方から多くの金属材料がアジアに向けて輸出されていました。
国内に鉱山があることは資源的に独立できるので素晴らしいことですが、いろいろな問題も発生します。その一つが足尾銅山の鉱毒などで見られる鉱山周辺の汚染です。先に書きましたように、人間が使う資源には人間に有用なものと有毒なものがあります。
そして「有毒」なものが「無用」であるとは限りません。人類にとって「有害で貴重」なものが多いのです。
ともかく日本には資源がないので、外国に資源を求めます。そして外国で資源を掘ってもらい、同伴して出てくる有害であまり役に立たないイオウのようなものは現地に置いてきます。典型的なものにチリの銅鉱山があります。銅の鉱石としては、昔は「自然銅」といって還元状態のピカピカした銅が直接採れることもありました。日本の島根県にある石見(いわみ)銀山などがそれでした。
しかし、最初に自然銅は掘り尽くされ、そのうち酸化銅になり、最近では銅はイオウと同伴する形の鉱石になってきました。銅精錬の場所によっては銅に直接的に同伴しているイオウは日本に来ますが、それでも基本的にイオウを同伴する銅鉱山の周辺はイオウや他の有毒金属に汚染され、荒廃します。
その荒廃は使用量が明治の頃と比べて桁違いに大きいのでひどい状態になるのです。しかし、日本に有力な鉱山がない現状では、もはや日本人は自分たちの使っている鉱山の鉱毒を実感することはできません。
日本が高度な技術を持っていて銅鉱山やその他の鉱毒から解放されているのは、少なくとも日本にとってよいことのように思えます。しかし環境全体を考えるとそうともいえないでしょう。
人間は文化的生活を送るのに古代から多くの資源を使ってきました。それは人間以外の生物も同様で霞(かすみ)を食べて生きていけるのは仙人だけです。資源を獲得するためには特別な組成の鉱石や原油が必要で、それらは一様に汚いものだったのです。たとえば現在ではすでに新潟県の油田はなくなりましたが、アメリカの小さな油田地帯に行きますとコールクールのようにべとべとして黒い汚いものが一面にまき散らされています。特に管理が悪いわけではなく、原油自体が汚いものなので長い採掘の歴史の中で徐々に汚染されていくのです。
水銀も人間にとって貴重な資源でした。毒物でしたが金属で液体ということや多くの金属と結合してアマルガムを作ることなど非常に特徴的で有用な金属です。身の回りにも最近まで「水銀湿度計」というのがあり、水銀なくしては温度も正確に測定できなかったのです。
そういう世界に住んでいますと、人間は自分がきれいなものだけではなく、汚いもののお世話にもなっている、必要なものを得たいと思ったら汚いものも同時に受け入れなければならないことを肌で感じるのです。
それがない日本。判断が狂ってきます。自分の廃棄物を他人のところに捨てる、自分が工業製品を使っているのにその工場を毛嫌いする、ほとんど土と同じ組成で全く安全なものなのに廃棄物の処理から出たものだというだけでどこか自分が見えないところに押し込めるなどの行動に出ます。そして、廃棄物の基準を決めるときにもそれが障害になります。
もし日常的に毒物と有益なもののバランスで生活していれば、どの程度の毒物を受け入れることとどの程度の文化的生活ができるというバランス感覚がありますから、「絶対安全」などという非現実的な議論は出てきません。しかし、毒物を見ないようにしているので極端に潔癖症になるのです。
このような環境は日本にとってあまり有益な状態ではないと思います。正しい判断をなくし、現在のリサイクルのように現実を喪失した状態に陥るのです。
『リサイクル汚染列島』(青春出版社)武田邦彦著より
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