第四章・覚醒の時代 連載第九十四話 飛行機の中で

荷物を、送り出した。
家財道具を、福岡へ、先に、送った。そして、彼は、妻と、子を連れて、飛行機に、乗った。福岡へ、向かう、飛行機だった。
その、機中で——彼は、ついに、事実を、告げた。
異動では、ない。日産は、辞めた。これから、福岡で、新しい生活を、始める。牧先生の、おられる土地で。
妻は、それを、聞いた。
「えっ」
短く、そう、つぶやいた。それだけ、だった。あとは、黙っていた。
たぶん、ずっと、黙っていたように、思う。四十年も前のことだ。細かいことは、覚えていない。ただ、妻が、辞めたことに何も語らなかったことだけは、覚えている。
なぜ、語らなかったのか。彼には、わからない。
語っても、仕方がない、と、思ったのかもしれない。大の男が、退路を断って、妻子もろとも、新しい地へ、向かっている。もう、飛行機は、飛び立っていた。雲の上だった。引き返せる、高さでは、なかった。
あるいは——と、彼は、今、思う。これは、彼が、勝手に、思っているだけ、かもしれないが。妻にとっても、新しい地での生活への、希望のほうが、大きかったのではないか。彼の、家族との同居の日々よりも。けれど、本当のところは、わからない。妻の心の内は、妻にしか、わからない。彼は、ただ、そうだったらいい、と、願っているだけ、なのかもしれない。
雲の上で、妻は、黙っていた。子は、何も、知らずに、いた。彼は、退路を、断っていた。
四十年後の今、振り返って、思う。
あのときは、つらい、決断だった。妻にとっては、なおさら、だっただろう。けれども、不思議なものだ。四十年も、経つと——人生の、山あり谷ありを、ひとつひとつ、味わってくると——あのときの、つらい思い出も、茫洋とした霞の中で、いつのまにか、味わいのある、楽しい思い出に、変わっていく。
「えっ」と、つぶやいて、黙った妻。雲の上の、あの沈黙。それさえも、今は、どこか、懐かしい。
生かされて、今を、存在する。
飛行機の中で「えっ」と短くつぶやいて、あとはずっと黙っていた妻の横顔を、四十年後の今、自分は、確かに、覚えている。
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