そもそも、教育勅語の前年に公布された大日本帝国憲法にしても当時のプロシア王国憲法を参考に作られたものであり、 世界史的な流れの中でみても決して特に軍国主義的な中身ではない。当時の日本は江戸末期に結ばれた不平等条約に苦しめられており、欧米諸国の治外法権を認めるという屈辱的な状況にあった。大日本帝国憲法は、「日本も法治国家として世界の仲間入りをする準備が整いましたよ」「これで治外法権を見直すテーブルについてくださいよ」という諸外国へのPRであり、国内に対しても議会を持つ立憲君主国家であることを宣言するものであった。
ただ一方で、憲法はあくまで最高法典であり、その性格上、個人の道徳にまで踏み込むものではなかった。日本人には、聖徳太子の十七条の憲法以来、「和を以て貴しとなす」というような道徳的、倫理的な教えがあるべきだ、という思いがあった。また、貞永式目以来の武家の慣習や、商人、農家の慣習もあって、当時の人々はこの憲法にしつくりこないという感じがいくらかあったようである。少々体に合わない着物のようなものだった。
そこで、明治天皇側近の儒学者、元田永学と近代派の学者的官僚の法制局長官、井上毅が中心となって教育勅語をまとめ、その空隙を埋めたのである。
つまり、戦前の日本は、プロシア憲法というヨーロッパの大陸法の系統に連なる大日本帝国憲法と、聖徳太子の十七条憲法以来の慣習に連なる教育勅語という二重の憲法を持つ国だったとも言えよう。
大日本帝国憲法が日本国憲法に全面的に改定されたのは昭和22(1947)年5月3日。続いて、教育勅語も23年6月19日に廃止された。占領下において、衆議院が「教育勅語等排除に関する決議」を、これ受けた参議院が「教育勅語等の失効確認に関する決議」をそれぞれ決議したのである。ただ、これは占領軍の教育担当者が廃止を示唆しただけで、当時の文部省や議員が過剰に反応したというのが真相のようである。
なにしろ、度々述べているように、教育勅語の中には軍国主義的な要素は一切含まれていない。さらに皇室についても、マッカーサー憲法自体が天皇を国民統合の象徴としているのだから占領政策上も問題はなかったはずである。それでも当時の日本人は、戦争犯罪人になったり、公職追放令にひっかかったりすることをひどく恐れ、少しでも日本の戦前体制の弁護になるような発言はしにくいという風潮が強かったのだ。
当時の日本人を責めても仕方がないが、この時の議会の行為によって教育勅語はもちろん、その中に盛り込まれていた普逼的な徳目まですべてが、「失効」し、「排除」されたものとして扱われるようになってしまった。これは日本の教育から大黒柱を抜くような行為であった。
明治以来、日本人は、憲法に何が書いてあるかを義務教育課程で教えられることはほとんどなかったが、教育勅語はすべての小学生が暗記すべきものとして、四~六年生の修身教科書の冒頭に載せられていた。小学生で必ず覚える九九や五十音図と同じである。「父母ニ」と言えば「孝ニ」と応え、「一且緩急アレバ」と言えば、「義勇公ニ奉ジ」とみなが言えたのである。
それが終戦後のある日を境になくなったのだ。そもそも教育勅語は、さまざまな普遍的徳目を誰かが新しく考えたのではなく、日本人の昔からの道徳規範を整理してまとめたものである。それがなくなるということは、日本人の意識から徳目がなくなったということに他ならない。日本人という民族が大きく変わったのは、ここからである。
「国民の修身」渡部昇一