第四章・覚醒の時代 連載第八十話 改名
第 四 章 ・ 覚 醒 の 時 代
第 八 十 話
改名
― 三 つ の 新 し い 名 前 ―
四十年近く経った今、その頃のことを、書き残そうとして、自分は、ふと、気づくことになる。
闘病時の記録が、ほとんど、残っていない。いつ転院したのか、いつ自宅に戻って療養したのか——具体的な日付の記録が、家の中を、いくら探しても、見つからない。当時の私は、たぶん、記録を取る余裕など、まったくなかったのだろう。記録を取る時間があるなら、煎じ薬を運び、書店に向かい、岡山に手紙を書き、両親と話していた。そういう日々だった。その日その日を、ただ、生き延びることに、すべての力を、注いでいた。
だから、闘病期のあれこれを書こうとしても、ところどころが、霞の中のように、茫洋としている。
けれども、改名の話だけは、違っていた。改名は、戸籍上の手続きを伴うもの。だから、家の中を探せば、当時の戸籍関連の資料が、はっきりとした日付とともに、残っていた。三人分の改名の日付。それは、闘病期の中の、数少ない、確かな骨格として、今、私の手元にある。
◇ ◇ ◇
中野の事務所で、牧先生は、三つの名前を、机の上に並べてくださった。
先生は、すでに、コンピュータをお使いになっていた。当時、コンピュータといえば、まだ、一般家庭には、ほとんど入っていない時代だった。けれども、先生は、姓名の相性を計算するために、いち早く、コンピュータを導入しておられた。私が、改名の覚悟を、お伝えしてから、数日後だったか、もう少し経った頃だったか。先生は、計算の結果として、私たち三人に最も適した、新しい名前の候補を、示してくださった。
三 人 の 新 し い 名 前
洋子 → 瑞枝(みずえ)
佳延(よしのぶ) → 嘉明(よしあき)
健慈(けんじ) → 嘉宏(よしひろ)
三つの新しい名前を、私は、しばらく、見つめていた。
「嘉明」——その名前を、目で追った時、何かが、自分の中で、ふっと、落ち着くような感触があった。それまでの「佳延」よりも、自分という人間に、より近い名前であるように、感じた。理由は、はっきりとは、説明できなかった。けれども、自分の中の何かが、「嘉明」という名前を、迎え入れていた。それは、新しい服を、いきなり羽織って、しっくりくる、というような、不思議な感覚だった。
妻の新しい名前「瑞枝」も、深く、印象に残った。
「洋子」から「瑞枝」へ。音も、漢字も、まったく違う名前。けれども、その「瑞枝」という二文字の中に、何か、新しい命の気配のようなものを、私は、感じていた。「瑞」は、めでたい兆し。「枝」は、生命の広がり。新しい名前が、妻の体の中で、何か新しい力を、目覚めさせてくれるかもしれない。私は、その名前に、命の活路を、託していた。
息子の新しい名前「嘉宏」は、私の「嘉」を、受け継ぐ形になっていた。
小さな息子は、まだ、二歳か三歳。生まれた時に、私たちは、「健慈(けんじ)」と名付けた。健やかさと、慈しみを、込めた名前だった。けれども、新しい名前「嘉宏」は、姓名科学の中で、新しい一家三人の調和を、もたらすものとして、選ばれた。父である私の「嘉」を、受け継ぐ。日本の名前の習慣の中の、ひとつの伝統的な形でもある。世代を超えて、名前の中の一文字を、受け継ぐ。息子自身は、何が起きているのかも、分からないまま、新しい名前を、与えられることになった。
◇ ◇ ◇
改名の方法を、牧先生から、教わった。
家庭裁判所への申立て。必要となる書類の種類。申立ての理由として、どのような事情を、書面に記すべきか。当時の日本の制度の中で、改名は、簡単に認められるものではなかった。「正当な事由」が、必要だった。それを、どう書面で示すか。先生のご経験に基づいた、具体的な助言を、私は、ひとつひとつ、ノートに書き留めていった。
必要な資料を揃えて、家庭裁判所に、持ち込んだ。
戸籍謄本、申立書、申立ての理由を記した文書、その他、必要な書類のすべて。先生のご助言通り、漏れなく、整えた。家庭裁判所の窓口で、書類を提出した。それから、しばらくの間、判断を待つ時間があった。許可されるかどうかは、最後まで、分からなかった。けれども、結果は、許可だった。三人分の改名が、戸籍の上で、認められた。
◇ ◇ ◇
手元に残る戸籍関連の資料を、改めて、眺めてみる。
三人の改名の日付が、そこに、はっきりと、記されている。
戸 籍 上 の 改 名 日 付
妻 ・洋子 → 瑞枝 : 昭和六十年十二月七日
私 ・佳延 → 嘉明 : 昭和六十年十二月二十一日
息子・健慈 → 嘉宏 : 昭和六十二年三月十二日
日付の順序が、すべてを、物語っていた。
まず、本人である妻の名前を、最初に変えた。命の谷の底に向かって、急ぐ妻のために、最優先で、新しい名前を、整えた。次に、夫である私の名前を、変えた。妻の新しい名前との、夫婦の調和を、整えるため。そして、最後に、息子の名前を、変えた。家族の中で、新しい三人の調和が、最後に、形を取った。
この順序を、決めたのは、私の判断だったのか、牧先生のご示唆だったのか、それも、もう、はっきりとは思い出せない。
けれども、結果として、この順序になっていた。妻が、まず、新しい名前を、自分のものとして、受け取る。それから、夫が、続く。最後に、息子が、続く。父母が、まず、新しい名前を背負って、それから、息子に、新しい名前を、授ける。それは、たぶん、命の順序として、自然なものだった。
◇ ◇ ◇
息子の改名の日付を、改めて、見つめる。
昭和六十二年三月十二日。
私は、その日付を、何度も、見つめ直す。
妻の永眠は、昭和六十二年三月二十八日だった。息子の改名から、妻の永眠まで、わずか十六日。二週間と、少し。妻の命が、もはや、長くは保たない、ということが、はっきりと、見えてきていた、その時期に、私は、最後の家族の改名を、進めていた。妻の命の谷の底に向かう、その直前に、息子に、新しい名前を、与えた。当時、なぜ、その日付に、息子の改名が確定したのか——意図的にそのタイミングを選んだのか、書類の処理が、たまたまそうなったのか、それも、もう、覚えていない。けれども、結果として、息子は、母の永眠の二週間前に、新しい名前を、受け取っていた。
四十年後の今、この日付の重なりを見つめると、何か思うところがある。
妻は、自分が、もうすぐこの世を去ることを、心のどこかで、知っていたかもしれない。そして、息子が、新しい名前で、これからの長い人生を歩いていく、その第一歩を、自分の目で、見届けた。母として、息子に、最後にしてやれることが、その新しい名前の確定を、見届けることだった——というふうにも、見えてくる。あるいは、私自身が、無意識のうちに、そのタイミングで、息子の改名を進めていた、ということだったのかもしれない。理由は、もう、分からない。けれども、日付の重なりだけは、戸籍の中に、確かに、刻まれている。
◇ ◇ ◇
「名前を変える」ということを、四十年後の今、改めて考えてみる。
日本では、歴史的に、名前を、臨機応変に、変えてきた。武家の社会では、幼名、元服後の名前、隠居後の号。公家の社会でも、人生の節目で、名前は、変わっていった。亡くなった後にも、戒名という名前が、新しく与えられる。一人の人間が、一生の中で、複数の名前を、持つことが、当たり前だった時代が、長く、続いていた。明治以降、戸籍の制度が整い、改名の手続きが、煩雑になった。それでも、改名そのものが、否定されたわけではなかった。日本の歴史の中の、もっと深い場所には、名前を変えることへの、ある種の柔軟さが、確かに、根を張っている。
西欧の社会でも、似たような感覚が、あったのではないか、と、私は、思っている。
父の名前を、息子が、そのまま受け継ぐ、「ジュニア」という習慣。父子で、同じ名前を持つということ。それは、単なる慣習ではなく、名前が、何かの力を、運ぶものだ、ということを、なんとなく、西欧の人々も、感じていたからではないか。名前を、世代を超えて、受け継ぐ。そのことの中に、名前の持つ、ある種の不思議な力を、人々は、無意識のうちに、認めていたのではないか。
中国にも、字(あざな)という、もう一つの名前の習慣があった。
幼名、本名、字、号——複数の名前を、人生の中で、使い分ける。インドの諸宗教でも、出家の際に、新しい名前を、授かる。アフリカの諸部族でも、人生の節目に、名前を変える習慣を持つ社会がある。世界中の人々が、名前と人生との間に、ある種の見えない繋がりが、確かにある、ということを、文化として、知っていた。牧先生の姓名科学は、その世界中の人々の直感を、現代の言葉で、もう一度、明確に立ち上げようとする、ひとつの試みなのだろう、と、私は、思っている。
◇ ◇ ◇
改名の話を進める中で、牧先生は、もう一つ、深い助言をくださった。
「グラフ的に安定的な領域を、ずっと狙うのなら、定期的にグラフを見て、全員で名前を変えていけばよい」——という示唆。先生の考えでは、人生の波動は、年齢とともに、少しずつ、変わっていく。だから、ある時点で最適だった名前が、その後の人生で、ずっと最適であり続けるとは、限らない。十年、二十年と経つ中で、グラフの形は、変わっていく。その変化に合わせて、名前を、定期的に組み直していけば、いつも、安定的な領域を、保つことが、できる。
けれども、現代の日本では、そういう改名は、社会通念上、難しい。
戸籍の制度の中で、何度も名前を変えることは、現実的には、認められない。仕事の上でも、付き合いの上でも、頻繁に名前を変える人は、信用を失うことになりかねない。だから、私は、改名後の「嘉明」という名前を、四十年近く、一度も変えていない。たぶん、これからも、変えないだろう。この名前を、自分のものとして、背負って、この世を全うするつもりだ。それは、姓名科学の理論的には、最適とは言えないかもしれない。けれども、現実の生活の中での、私の選択でもある。
息子の嘉宏も、改名後、ずっと、嘉宏として生きてきている。
「健慈」という名前で過ごしたのは、生まれてから二歳までの、ごく短い時間だけ。今、四十歳になった息子の中に、「健慈」という名前の記憶は、ほとんど、残っていないだろう。けれども、戸籍の最初のところには、確かに、「健慈」という名前が、刻まれている。それを、私は、息子のために、いつか、伝えなければならない、と、思っている。お前は、生まれた時、お父さんとお母さんから「健慈」と名付けられた、と。それを、お母さんの命のために、お父さんとお母さんが、「嘉宏」に組み直したのだ、と。
◇ ◇ ◇
改名は、命の戦場の中での、究極の選択肢だった。
書物の中のあらゆる扉を叩いた末に、最後に残った活路。父母から授かった名前を、自分の手で、組み直すこと。それは、ふつうの判断の物差しで測れば、突拍子もない選択だった。けれども、その時の私には、その選択しか、残っていなかった。三人分の改名が、戸籍の上で、確定した。私たち夫婦と、小さな息子は、新しい三つの名前を、それぞれ、背負うことになった。
改名後の妻のグラフを、私が改めて見せていただくことになるのは、もっと、ずっと、後のことになる。
妻の永眠の後、私は、もう一度、中野の事務所で、グラフを見せていただくことになる。改名前のグラフ、そして、改名後のグラフ。二つの線が、どう違っているか。新しい名前の力が、どこまで、妻の人生の波動に、影響を与えていたか——それを、自分が、本当の意味で、知ることになるのは、永眠の後のことだった。けれども、その話は、また、別の話になる。
三つの新しい名前を、抱えて、私たちは、最後の数か月の戦場に、向かっていった。
(つづく) R080527
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