「うき世離れて奥山ずまい」という俗謡があります。あの歌にはたいへん深い宗教的な意味があるかと存じます。「恋も悋気(りんき)も忘れていたが」という、その一句のなかには、迷いの世界と、悟りの世界が示されています。すなわち恋と悋気の世界は、つまり迷いの世界です。あきらめられぬ世界です。だが恋もなく悋気もない世界は、悟りの世界です。スッパリ諦めた世界です。もうそこにはうき世の苦しみ、悩みはありませぬ。しかし、果たして自分(おのれ)一人が涼しい顔をして、悟りすましておられましょうか。「鹿の鳴くこえを聞けば昔が恋しゅうて」とは、決して妻こう鹿のなく声ではありません。恋に泣き、悋気に悩むその声です。社会苦に泣き、人間苦に悩むその切ない叫びです。「衆生疾むが故に、われ亦疾む」という菩薩は、とうてい大衆のやるせない叫びに、耳を傾けずにはおられないのです。「他人は他人、俺は俺だ」などといって、すましてはおられないのです。「大悲駭(おどろ)いて家宅の門に入る」で、もうジッとしてはおられないのです。「逢いたさ見たさに来たわいな」というのはそれです。だが、それは決して久米の仙人が、神通力を失って、下界ヘ墜落した、というようなものではないのです。
それは転落ではなくて、随順です。墜落ではなくて、やむにやまれぬ菩薩の大悲です。「照れば降れ降れば照れとの叫びかな」で、私ども人間は勝手なものです。照ればもう降ってくれればよい。降れば、もうやんでくれればよ い。実に気儘(きまま)な存在(もの)です。その頑是(がんぜ)な駄々っ子のような私どもを、ながい目で見守りつつ、いつも救いの手をさしのべるのが菩薩です。
げに菩薩とは、自分(おのれ)の生きてゆくことが、そのまま他人の生きてゆく光ともなり、力ともなり、塩ともなりうる人です。

無所得の所得
要するにこの一段は私どもにして、一度、菩薩の般若の智惹を体得するならば、何人も心になんのわだかまりもなく、さわりもない、かくてこそわれらははじめて、一切の迷いや妄想をうち破って、ほんとうの涅槃の境地に達することができる。しかもそれが「無所得の大所得」だ、ということを教えたものであります。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)