さてこれからお話ししようと思うところは、「智もなく、亦得もなし、無所得を以ての故に」という一句であります。言葉は簡単ですが、その詮(あらわ)す所の意味に至ってはまことにふかいものがあるのです。しかし、手っ取り早く、その意味を申し上げれば、つまりこうです。
「およそ一切の万物は、すべて皆「空なる状態」にあるのだ。「五蘊」もない、「十二処」もない、「十八界」もない、「十二因縁」もない、「四蹄」もないと、聞いてみれば、なるほど「一切は空だ」ということがわかる。しかも、その空なりと悟ることが、般若の智慧を体得したことだ、と思って、すぐ に私どもは、その智慧に囚われてしまうのだ。しかし、元来そんな智慧というものも、もとよりあろうはずがないのだ。いや智慧ばかりではない。そういう体験(さとり)を得たならば、何かきっと「所得」がある、いやありがたい利益や功徳でもあろうなどと、思う人があるかも知れぬが、それも結局はないのだ」というのが、「無レ智亦無レ得」ということです。
こうなると、皆さんは、いわゆる迷宮に入って、何がなんだか、さっばりわからなくなってしまうことでしょう。しかし、ここに、かえってまたいうにいわれぬ妙味があるのです。いったい仏教の理想は、「迷いを転じて悟り開く」ことです。煩悩を断じて菩提を得ることです。つまり凡夫が仏陀になることです。にもかかわらず、迷いもない、悟りもない、煩悩もなければ、菩提もない。ということは、「いったいどんな理由だ」という「疑問」が必ず湧いてくると思います。だが、ここでとくとお考えを願いたいことは、万物は因縁より生じたものだということです。そして「因縁生」のものである限り、皆ことごとく相対的なものだということです。
病があればこそ、薬の必要があるのです。病あっての薬です。病にはいろいろ区別があるから、 薬にもまたいろいろの薬があるわけです。だが、病が癒れば、薬も自然いらなくなるのです。風邪を引 いた時には、風邪薬の必要があります。しかし、いったん、風邪が癒れば、いつまでも風邪薬に執着する必要はありません。身体の健全な人には、薬の必要がないように、一切をすっかり諦観た心の健全な人ならば、何も苦しんでわざわざ心の薬を求める必要はありません。いま仮に、東京から京都へ汽車で行くとします。汽車が無事に京都についた時、汽車のおかげだ、汽車はありがたいといって、肝腎な用事をうち忘れて、いつまでも汽車そのものに囚われていたらど うでしょうか。汽車の役目は、人を運ぶ事にあるのです。人を運んでしまえば、汽車の用事はそれですむのです。私どもは、汽車に乗ることが、目的そのものではないのです。目的を忘れて、汽車そのものに、いつまでも執着していることは、全く意味のない事です。だといって、私どもは、決して汽車の必要を認めないものではありませぬ。ここです、問題は。あの順礼の菅笠になんと書いてありますか。
「迷うが故に三界の城あり。悟るが故に十方は空なり。本来東西なし、何処にか南北あらん」(迷故三界城。悟故十方空。本来無東西。何処有南北)
まことに「本来無束西」です。東西があればこそ、南北があるのです。にもかかわらず、いつまでも、どこへ行っても、いやこれが東だ、いやこれが西だ、といっていたら、果たしてどんなものでしょうか。
ところで、なにゆえに「智もなく亦得もなし」というかと申しますに、それはつまり「無所得を以ての故に」であります。すなわち「無所得だから」というのです。で、問題はここに一転して、「無所得とはなんぞや」ということになるのです。中国の有名な学者愈曲園(ゆきょくえん)(清朝の末葉に「南愈北張(なんゆほくちょう)」といわれ、張之洞(ちょうしどう)と並び称せられた人)の書いた随筆に、「顔面問答」というのがあります。それは「口」と「鼻」と「眼」と「眉毛」の問答です。
お互いの顔を見ればわかりますが、いったい人間の顔のいちばん下にあるのが口です。その上が鼻、その上が眼で、いちばん上にあるのが眉毛です。口の不平、鼻の不満、眼の不服は、この眉毛の下にあるということです。彼らは期せずして、眉毛の「存在価値」を疑ったわけです。口、鼻、眼から、「なにゆえに君は僕らの上でえらそうにいばっているのか、
いったい君にはどういう役目があるか」と詰問せられた時の眉毛の答えは、実に面白いのです。
「いかにも君らは重大な役目を持っている。食物を摂り、呼吸をし、ものを看視していてくれる君たちのご苦労には、実に感謝している。しかし、今日改まって君たちから、「君の役目はなんだ」と問われると、全くお恥ずかしい次第だが、何をしているのか自分ながらこれだといって答えられない。ただ祖先伝来、ここにいるというだけで、日夜すまぬすまぬとは思いつつ、まあこうして、一所懸命に自分の場所を守っているわけだ。君たちは客邦他に誇るべき何物かを持っているだろうが、僕には誇るべき何ものもないのだ。何をしているか、と問われると、お恥ずかしいわけだが、なんと答えてよいやらわからない」というのです。最後に作者は、こういう言葉をつけ加えております。
「自分は今日まで口と鼻と眼の心懸(こころが)けで暮らしてきた。しかしそれは間違っていた。今後は、ぜひ眉毛の心懸けで、世を渡りたい」
まことに子供だましのような、つまらぬ馬鹿らしい話です。しかし味わってみるとなかなか意味のある話だと存じます。眉毛の態度はちょっと見ると、いかにも無自覚で、自覚なきがごとくですが、しかしそこにはチャンと―つの深い「自覚」をもっているのです。自覚なきがごとくにして、しかも自覚している。この眉毛の態度こそ、まさしくそれは、因縁に随順しつつ、無我に生きる生活です。
そこには万人の味わうべき何ものかがあると存じます。「一隅を照らすものを国宝となす」と伝教大師はいっていますが、この国宝こそ、今日最も要求されているのです。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)