右の話は、岡倉天心の書いた「茶の本」にも出ておりますが、「清潔」「清寂」を尊ぶ茶人の心にも、まことにこうした味わうべき世界があるのです。「和」と「敬」と「清」と「寂」をモットーにする茶の精神を、私どもは、もう一度現代的に、新しい感覚でもって再吟味する必要があると存じます。そこには必ず教えらるべき、貴い何物かがあると思います。
塵の効用
いったい世の中で、なんの役にもたたないものを「塵芥(ちりあくた)」といいます。だが、もし塵芥といわれる、その塵がなかったとしたらどうでしょうか。あの美しい朝ぼらけの大空のかがやき、金色燦然たるあの夕やけの空の景色、いったいそれはどうして起こるのでしょうか。科学者は教えています。宇宙間には、目にも見えぬ細かい小さい塵が無数にある。その塵に、太陽の光線が反射すると、あの東天日出、西天日没の、ああした美しい、自然の景色が見えるのだ、といっておりますが、こうなると「塵の効用」や、きわめて重大なりと言わざるを得ないのです。
周利槃特の物語
塵といえば、この塵について、こんな話がお経の中に書いてあります。
それは周利槃特(しゅうりはんどく)という人の話です。この人のことは、近松門左衛門の「綺語(きご)」のなかにも「周利槃特のような、愚かな人間でも」と書いてありますくらいですから、よほど愚かな人であったに相違ありません。あの「茗荷(みょうが)」という草をご存じでしょう。あの若荷は彼の死後、その墓場の上に生えた草だそうで、この草を食べるとよく物を忘れる、などと、世間で申していますが、物覚えの悪い彼は、時々、自分の姓名さえ忘れることがあったので、ついには名札を背中に貼っておいたということです。だから「名を荷(にな)う」という所から、「名」という字に、草冠をつけて「茗荷」としたのだといいます。まさかと思いますが 、とにかくこれにヒントを得て作られたのが、あの「茗荷宿」という落語です。ところで 、その周利槃特の物語というのはこうです。
彼は釈尊のお弟子のなかでも、いちばんに頭の悪い人だったようです。釈尊は彼に、お前は愚かで、とてもむずかしいことを教えてもだめだから」とて、次のようなことばを教えられたのです。
ごう
「三業に悪を造らず、諸々の有情(うじょう)を傷めず、正念に空を観ずれば、無益(むやく)の苦しみは免るべし」
というきわめて簡単な文句です。「三業に悪を造らず」とは、身と口と意(こころ)に悪いことをしないということです。「諸々の有情を傷めず」とは、みだりに生き物を害しないということです。「正念に空を観ずれば」の「正念」とは一向専念です。「空を観ずる」とは、ものごとに執着しないことです。「無益の苦を免るべし」とは、つまらない苦しみはなくなるぞ、ということです。たったこれだけの文句ですが、それが彼には覚えられないのです。毎日彼は人のいない野原へ行って、「三業に悪を造らず、諸々の有情を傷めず…… 」とやるのですが、それがどうしても、暗誦できないのです。側(そば)でそれを聞いていた羊飼いの子供が、チャンと覚えてしまっても、まだ彼にはそれが覚えられなかったのです。一事が万事、こんなふうでしたから、とてもむずかしい経文なんかわかる道理がありません。ある日のこと、祇園精舎の門前に、彼はひとりでションポリと立っていました。それを眺められた釈尊は、静かに彼の許へ足を運ばれて、「おまえはそこで何をしているのか」
と訊ねられました。この時、周利槃特は答えまして、
「世尊よ、私はどうしてこんなに愚かな人間でございましょうか。私はもうとても仏弟子たることはできません」
この時、釈尊の彼にいわれたことこそ、実に意味ふかいものがあります。
「愚者でありながら、固分が愚者たることを知らぬのが、ほんとうの愚者である。お前はチャンとおのれの愚者であることを知っている。だから、おまえは真の愚者ではない」
とて、釈尊は、彼に一本の箒(ほうき)を与えました。そして改めて左の一句を教えられました。
「塵を払い、垢を除かん」
正直な愚者周利槃特は、真面目にこの一句を唱えつつ考えました。多くの坊さんたちの鞋履(はきもの)を掃除しつつ、彼は懸命にこの一句を思索しました。かくて、永い年月を経た後、皆から愚者と冷笑された周利槃特は、ついに関知の心の垢、こころの塵を除くことができました。煩悩(まよい)の塵埃(けがれ)を、スッカリ掃除することができました。そして終(つい)には「神通説法第一の阿耀漢」とまでなったのです。ある日のこと、釈尊は大衆を前にして、こういわれたのです。
「悟りを開くということは、決してたくさんなことをおぼえるということではない。たといわずかなことでも、小さな―つのことでも、それに徹底しさえすればよいのである。見よ、周利槃特は、箒で掃除することに徹底して、ついに悟りを開いたではないか」
と、まことに、釈尊のこの言葉こそ、われらの心して味わうべき言葉です。「つまらぬというは小さな智慧袋」、私どもはこの一句を改めて見直す必要があると存じます。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)