まことに「因縁」を知ったものは、つねに「あるもの」を「あるべきように」生かすものです。一滴の水も、一枚の紙も、用いようによっては、実際大いに役立つものです。だから、自然どこにも、無駄はないわけです。役に立たぬものはないわけです。
私の書斎には、死んだ父の遺物の一幅があります。それは紫野大徳寺の宙宝の書いた「松風十二時」という茶がけの一行ものです。句も好いし、字もすてきによいので、始終私はこれをかけて、父を偲びつつ愉(たの)しんでいます。「質問に答えて曰く、神秘なり」で、ちょっとこの意味を簡単に説明し難いのですが、いったい茶道には無駄はないのです。身辺のあらゆるもの、自然のあるがままの姿を、あるがままに生かさんとするところに、茶道の妙趣があるように思います。茶道といえば千利休についてこんな話が伝わっています。

茶人の風雅
ある日のこと、利休は、その子の紹安(しょうあん)が、路地を綺麗に掃除して、水を撒(ま)くのをジット見ていました。紹安が スッカリ掃除を終わった時、利休は、
「まだ十分でない」
といって、もう一度仕直すように命じたのです。いやいやながらも二時あまりもかかって、紹安は、改めてていねいに掃除をし直し、そして父に向かって、
「お父さん、もう何もすることはありません。庭石は三度も洗いました。石灯籠(いしどうろう)や庭木にも、よく水を撒きました 鮮苔も生き生きとして緑色に輝いています。地面にはもう塵一つも、木の葉一枚もありません」
といったのです。その時、父の宋匠(そうしょう)は厳(おごそ)かにいいました。
「馬鹿者奴(ばかものめ)、露地の掃除は、そんなふうにするのではない」
といって叱りました。こういいながら茶人は、自分で庭へ下りていって樹を揺すったのです。そして庭一面に、紅の木の葉を、散りしかせたのでした。茶人がまさしく求めたものは、単なる清潔ではなかったのです。美と自然とであったのです。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)