次に六境とは、六根の対象になるもので、色と声と香と味と触と法とであります。六根に対する六つの境界という意味で、六境といったのです。ところで、この六境をまた「六塵」ともいうことがありますが、この場合、「塵」とは、ものを穢(けが)すという意味で 、私たちの浄(きよ)らかな心を汚(よご)し、迷わすものは、つまりこの外からくる色と声と香と味と触と法とであるから「六境(きょう)」をまた「六塵(じん)」ともいうのです。「六塵の境界」などというのはそれです。ただし六塵の中の「法塵」は、意根の対象となるもので嬉しいとか、悲しいとか、憎いとかかわいいとかいう精神上の作用(はたらき)(心法)をいったものです。けだし、以上に申し述べました、六根と六境とが、いわゆる「十二処」といわれるものですが、これをまた「十二入(にゅう)」ともいっています。「処」は「場所」の所で「生長」の義と解釈されていますが、六根が六境を受け入れ、よく意識を生長せしめるから、これを「十二処」といったのです。しかしてこの根と境とは互いに渉入し、根は境をとり、境から根を生ずるというように、相互に入れちがって、「渉入」するという意味から「十二処」のことを、また「十二入」といったのです。
最後に「界」とは、詳しくいえば「十八界」ということです。「六根」と「六境」に、さらに「六識」を加えたもので、合計三六(さぶろく)十八となるわけです。いったい、この認識の作用(はたらき)というものは「根」と「境」と「識」との三つが、相応じ、一致しなければ、起こらないものです。で、単に「根」と「境」とだけで「識」がなければ、いわゆる「心ここにあらざれば、見れども見えず」です。あれどもなきがごとしです。現に私どもが何か仕事に夢中になっているときは、知らぬ間に時間がたってしまいます。一時間、二時間が、ホンの五分か十分ぐらいにしか思えないのです。だが、なにも一時間が十分になったわけではありません。スッカリ時間を超越してしまうから、そう感じるのです。ところで、この「界」という字は、科学の世界とか、哲学の世界とか、あるいは新緑の世界などという場合の、その世界で、差別とか区別とか領域とかいう意味です。したがって十八界ということは、十八種類の世界ということで、つまり「根」と「境」と「識」との相対関係によって生じた、十八の世界です。たとえば、「眼根」と「色境」と「眼識」とが和合すると、ここに「眼」を中心とする一つの世界ができるのです。それがいわゆる「眼界」です。つまり「眼の世界」です。いまこの「心経」には、最初の「眼界」と最後の「意識界」だけを挙げて、その中間の「耳の世界」「鼻の世界」「舌の世界」などの、十六界をば、「乃至」という二字で省略してあるのです。
話がたいへんめんどうになりましたから、ここらで一まずきり上げて、最初に申し上げた、あの二句の俳句をかりて、一応いままでいったことを、考え直してみたいと存じます。
さてまず最初の「眼には青葉山ほととぎす初鰹」という句でありますが、この「眼には青葉」というのは、いうまでもなく、眼の世界です。私どもの眼に映る世界です。そしてその対象は、青葉という「色の世界」です。すなわち、私どもの眼は、眼球(めのたま)を通し て、青葉という「色の世界」を認識したのです。知ったのです。「ああ、もうスッカリ新緑になったな」と眼は知るのです。しかし、「どこかヘ一度遊びに行きたいな」となると、もう眼の領域ではないのです。「増一阿含経(ぞういつあごんきょう)」というお経の中には、

「眼は色をもって食(じき)となし、耳は声をもって食(じき)となす」

ということばが出ておりますが、眼の食物は色です。耳の食物は声です。よいものを見たい、いい声を聞きたいというのが、眼の楽しみ、耳の楽しみです。仏教の方では人が亡くなった時に香を手向けますが、これは「中有(ちゅうう)(中陰)の衆生は、香をもって食(じき)とする」という所からきているのです。したがって食物は、ただ口だけに必要なものではありません。眼にも、耳にも、鼻にも、みんな食、すなわち食物が必要なのです。

山ほととぎすの初音
次に「山ほととぎす」というのは耳の世界です。杜鵑(ほととぎす)のあの一声は耳の食(じき)です。残念ながら耳の遠い人は、耳はありますが、聴神経が麻痺しているので、せっかくの山ほととぎすの初音も聞こえないわけです。次に、「初鰹(初ガツオ)」とは、舌の世界です。味覚の世界です。風邪をひいて熱でもあれば、何を食べてもおいしくないのは、舌があってもないと同じです。味覚がないか 、少しも味がないわけです。すなわちあじない、まずいというのはそれです。で、要するに、この「眼には青葉」の一句には、「眼」と「耳」と「舌」との三つの世界、およびその対象となっているところの「色」と「声」と「味」との三つの境界が表現されているわけです。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)