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新緑の世界
いつのまにか花の春も去って、若葉青葉に燃ゆる、すがすがしい新緑の世界になりました。武蔵野に住む私どもにとっては、きょうこのごろが一年じゅうでいちばん恵まれた時候です。
ところで、この新緑五月のころになると、いつも私どもの頭に浮かんでくるのは、あの有名な、

眼には青葉山ほととぎす初鰹

という句です。説明なしでも、もはや、日本人ならば何人にも十分にわかる句でありますが、これといっしょに新緑のころになると、いつも私の思い起こす句は、あの

衣更(ころもが)え手につく藍の匂いかな

という句です。これは衣更えの、新しい、すがすがしい気分を、最も巧みに表わしていることばだと思います。本日はこの二つの句を契機といたしまして、いささか『心経』の心を味わってゆきたいと思います。
さて、お経の本文は、
「是の故に、空の中には色もなく、受、想、行、識もなく、眼、耳、鼻、舌、身、意もなく色、声、香、味、触、法もなく、眼界もなく、乃至、意識界もなし」

というのであります。この一節は、仏教の世界観を物語る「三科の法門」すなわち「蘊」「処」「界」の三種の方面から、「一切は空なり」ということを、反復して説いたものであります。ところで、まず「蘊」ということですが、言うまでもなく蘊とは五蘊のことです。もっとも、この五蘊のことは、すでにたびたぴ申し上げた通り、私たち(我)をはじめ、私たちの世界(我所)を構成している五つの元素です。すなわち眼に見、耳に聞き、鼻に喫ぎ、舌に味わい、
身に触れることのできる一切の客観の世界は、ことごとくこの「色」の中に摂(おさ)まるのです 。次に五蘊の中の「受」「想」「行」「識」の四は、意識(こころ)の作用で、すべて主観に属するものです。しかも主観の主観ともいうべきものは、第四の識であって、この意識が、客観の「色」と交渉し、関係することによって 、生ずる心象(こころのすがた)が、受と想と行との三であります。したがって「五蘊は空」だということは、つまり、世間にある一切の存在(もの)はみんな空だということになるのであります。ゆえに「空の中には色もない、受、想、行、識もない」といえば、私どもも、私どもが住んでいる世界も、つまり「一切のものすべて空なる状態にあるのだ、ただ因縁によって仮に有るものであるから、執着すべき何物もない、ということになるわけであります。
次に「処」とは、十二処ということで「六根」と「六境」といったものです。ところでその六根とは、あの富士山や御岳山などへ登る行者たちが、「懺悔懺悔、六根清浄」と唱える、あの六根で、それは眼、耳、鼻、舌、身の五官、すなわち五根に、「意根」を加えて六根といったので、つまり私どもの身と心のことです。別な語でいえば心身清浄ということが六根清浄です。そこで、この「根」という字ですが、昔から、根とは、識を発して境を取る(発識取境(はっしきしゅきょう))の義であるとか、または勝義自在(しょうぎじざい)の義などと、専門的にはずいぶんむずかしく解釈をしておりますが、要するに根とは「草木の根」などという、その根で、根源とか根本とかいう意味です。すなわちこの六根は、六識が外境(そとのもの)を認識する場合は、そのよりどころとなり、根本となるものであるから、「根」といったのです。ところが面白いことには、仏教ではこの「根」をば、「扶塵根(ぶじんこん)」と「勝義根(しょうぎこん)」との二つに分けて説明しておるのです。たとえば、眼でいうならば、眼球は扶塵根で、視神経は勝義根です。したがって、たとい眼球はあっても、視神経が麻痺しておれば、色は見えませぬ。これと同時に、視神経はいかに健全でも、眼球がなければ、ものを見ることはできないわけです。
それゆえに、この「勝義根」と「扶塵根」、つまり「視神経」と「眼球」との二つが、揃って完全であってこそ、はじめて私どもの眼は、眼の作用をするわけです。
しかもこれは他の五根についても同様であります。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)