話はつい横道へそれましたが、私どもの家庭の、この厳父の心を、そのままに写したのがあの不動明王という恐ろしい仏です。厳父に対する慈母の心を、そのままに現わしたのが、観自在菩薩というあのやさしい仏です。しかもそれはいずれも「同じ心の仏なりけ 」です。いずれも「慈眼視衆生(じげんじしゅじょう)」の仏心の顕現(あらわれ)であります。古来、「般若は仏の母」だといっていますが、般若こそ、まことに一切の諸仏をうみ出す母です。諸仏出生の根源です。あの慈母の権化、 観自在菩薩が、深般若波羅蜜多を行じて、一切は空なりと観ぜられた、ということは、実にそこに深い意味があるのです。空を観じて空を行ずる因縁を観じて因縁を行ずる。空観より空行へ、因縁観より因縁行へ、そこに哲学として仏教宗教としての仏教の立場があるのです。古聖が「色即是空と見れば、大智を成(じょう)じ空即是色と見れば、大悲を成ずる」といったのは、まさしく、こうした境地を、道破したものであると思います。
たいへん前置が長くなりましたが、すでにお話ししました「因縁」の原理や、ただ今申しましたその話をば、とくとお考えくだされば、これから申し述べることは、自然ハッキリわかってくるのです。さて、ここに掲げてある本文は要するに、「五蘊」によって、作られている諸法(もの)はみな空である、という、その空の相(すがた)についていったものです。つまり眼に見える有形の物質と、眼に見えぬ無形の精神とが、集まってできている、この世界じゅうのあらゆる存在は、皆ことごとく空なる姿、すなわち「空なる状態」にあるのですから生ずるといっても、何も新しく生ずるものではない。滅するといっても、すべてが一切なくなってしまうのではない。汚いとか、綺麗だとか増えたとか、減ったとかいうが、それはつまり個々の事物に囚われ、単に肉眼によって見る、差別の偏見から生ずるのであって高処に達観し、いわゆる全体的立場に立って、如実に、一切を心の眼でみるならば 、一切の万物は不生にして、不滅であり、不垢にして、 不浄であり、不増にして不減だというのであります。ところで、ここには、否定を表わす「不」という語が六つあります。いわゆる「六不」ですが、しかしこれはあながち六不に局(かぎ)ったことではなく、いくつ「不」があってもよいわけです。八不、十不、十二不という語が、お経に出ておりますが、いま『心経』は、この「六不」によって、一切の「不」を代表させているのであります。で、結局は不の一字さえわかれば、一つの「不」で結構なのであります。いま試みに不生、不滅という語をとって考えてみましょう。さてこの不生、不滅という語を、もう一度他の語で申せば、「生滅を滅し已(お)わる」すなわち「生滅滅已(めつい)」ということです。あの「いろは歌」でいえば、「うゐのおくやまけふ越えて」という句に当たるのです。うゐのおくやまを越える、ということは、つまり生死に囚われる迷いの心を、解脱するということです。しかもそれが不生不滅という意味です。生滅を滅し已(おわ)るということです。しかし、一歩退いて考えまするに、「生滅」ということは変化ということで、少なくとも変化は、生滅によって起こるものです。「無常」、「変化」、「流転」、いずれもそれは疑うべからざる現前の事実です。したがって生滅を滅するとか、あるいは不生不滅だとかいうことは、いかにも、合点のゆかぬことのように思われるのです。まことに、一応は無理からぬことであります。しかし再応、これを吟味しますと、それは、なにも不合理な不可解なことばではありません。すなわち「生滅を滅し已る」ということは、要するに、生に囚われ、滅に囚われる、その「囚われの心」、「執着の心」を離れるという意味なのです。芭蕉は、俳句の心は「無心所着」といっていますが、この「心に所着なし」という境地が、生滅を滅し已るという世界で、ものにこだわりのない日本人の明朗性も、ここにあるのです。ゆえに不生不滅ということは、むかしから仏教学者は、浪と水との関係のように解釈しています。波という現象の上から見れば、生滅起伏もあるが、水という本体そのものの上には、なんらの変化はないという立場から、「生滅」と「不生不滅」を即めて、現象と本体の関係において見てゆくことも、もちろん、必要ではありましょう。しかし、これと同時に、私どもは、生じたといっては喜ぴ、滅したといっては悲しむ、その「囚われの心」、「 執着する心」、その「迷いの心」を否定するという意味で、この「不生不滅」の原理を味わってゆかねばならぬと思います。かの「エネルギー不滅の法則」が、科学的真理であるように、また、宇宙の万物を構成する電子の量が、一定不変であるというように、「因縁」の集合によって、できている一切のもの、「空の状態」における一切の事々物々は、ことごとく不生不滅です。不増不減であるのです。
かく申しますと、人あるいはいうかも知れません。「それは宇宙の実相は、不生不滅かも知れん。いや不生不滅であるだろう。しかしわれわれ個人には、やはり依然として『生滅』という事実があるではないか。生きたり、死んだりする事実があるのじゃないか。われわれは、そんな宇宙がどうの、不生不滅がどうの、空がどうの、般若がどうのというような、自分らの生活と、全く縁の遠い理窟を、聞こうとは思わないのだ」と難詰せられる方があるかも知れませぬ。が、しかしです。「無用の用」こそ「真の用」ではありませんか。理窟と見るは所詮僻目(しょせんひがめ)です。「空」の原理、「不生不滅」の真理、それは偽ることのできない道理です。いや、どうしても疑うことのできない事実です。仰せの通り、われわれ個人には、生き死にがあります。「自分の家」では、赤ん坊が生まれたかと思うと、隣りの家」では、悲しい不幸が起こっているのです。人に生死があるように、世間にもまた生滅があります。
しかしその生死の根本を尋ねたならばどうでしょうか。道元禅師はいっております。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)