小言をいいつつも、やはり、わが子かわいさに、財布の底をはたいて、出してくれる、母の慈愛もほしいのです。不孝者奴と罵りつつ、もうないぞよと意見しつつ、なおもわが子をは、慈愛の懐に抱いてくれる親の情けは、否定しつつ、肯定しているのです。智慧の涙と、慈悲の涙、たといその表現の相においては異なっておろうとも、その心持には、なんの違いもないのです。

亡くなった老父のこと
いまから二十数年前に亡くなりました私の父は、こんな歌を私に残して逝きました。

父は照り母は涙の露となりおなじ慧(めぐみ)にそだつ撫子

誰れが詠んだ歌だか、私にはわかりませんが、たしかにかみしめ、味わうべき歌だと思います。厳父の心と、慈母の心を、一首の和歌に託して、現わした古人の心もちが、優にやさしく、また尊く思われます。今日、三人の子の父となった私には、今さらながら、亡くなった父の慈愛、母の情が泌々(しみじみ)と感ぜられるのです。「子を持って知る親の恩」とは、あまりにも、古い言葉です。しかし、やっぱり、子を持って知る親の恩です。子をもつことによって、はじめて私たちは、亡くなった親のありがたさ、もったいなさを、泌々と追憶するのです。だが、

さればとて石碑にふとんもきせられず

です。なっかしい、恋しい、両親への追憶に耽るにつけても、私は、厳父の心、慈母の情を通じて、そこに哲学としての仏教、宗教としての仏教のふかさ、尊さを、今さらながら見直しつつ、泌々と味わっているのであります。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)