もはや、皐月の空には、あの勇ましい鯉幟(のぼり)が、新緑の風を孕みつつ、へんぽんと勢いよく大空を泳いでいます。自然の変化、人生の推移、少なくとも、私どもの世界には、永遠に常住なる存在は、一つもありませぬ。一生たった一度、「一期一会」とは、決して茶人の風雅や、さぴの気持ではないのです。茶の道は、一期一会の心をもたぬものには、ほんとうに味わわれませんが、人生のことも、やはり同じです。こういう気持をもたぬものには、人生の尊い味わいをつかむことはできません。まことに一切はつねに変化しつつある存在です。だから、たとい存在しているといっても、それは、仮の、一時的の存在でしかありません。仏教では、存在しているものを「有」といっていますが、すべて「仮有(けう)」です。「暫有(ざんう)」です。とにかく、永遠なる存在、つねにある「常有の存在」ではありません。あの花を咲かせた桜も、新しい芽を出させた桜も、やがては、また花を散らす桜です。
スッカリ枯れ木のようになってしまう桜です。所詮は、「散る桜、のこる桜も散る桜」です。だが、一たぴ冬が去り、春が来れば、一陽来復、枯れたとみえた桜の梢には、いつの間にやら再び綺麗な美しい花をみせています。かくて年を迎え、年を送りつつ、たとい花そのものには、開落はありましても、桜の木そのものは、依然として一本の桜です。

一休と山伏
ある日のこと、 ある山伏が、一休和尚に向かって、
「その仏法はいずこにありゃ」
と、詰問したのです。すると和尚は即座に、
「胸三寸にあり」
と答えました。これを聞いた件の山伏、さっそく、懐中せる小刀をとり出し、開き直って、
「しからば、拝見いたそう」
と、つめよったのです。そこは、さすが機智縦横の一休和尚です、すかさず、一首の和歌をもって、これに答えました。

としごとにさくや吉野のさくら花樹(き)をわりてみよ花のありかを

これには勢いこんでいた山伏も、とうとう参って、その後ついに和尚の弟子になったということです。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)