その識とはつまり迷いの智慧のことです。愚痴という智慧が、この識です。愚痴の痴は疒(やまいだれ)に知という字ですから、つまり智慧が病気にかかっているわけです。したがって、それはもちろんほんとうの智慧ではありませぬ。いったい「もの」の道理を、真に弁(わきま)えないから、いろんな悶(もだ)え、悩み、すなわち煩悩が出てくるのですが、愚痴は、つまりものの道理をハッキリ知らないから起こるのです。で、人間が仏陀になることを、識を転じて智を得るといっておりますが、それは結局、迷いを転じて悟りを開くということと同じ意味で、要するにわれわれ迷いの人間が、悟れる仏陀になるということです。ところで、ここにいう般若の智慧とは、決して愚痴といわれ、識といわれる、人間のもっているあさはかな智慧ではないのです。
それは知らざるもの、眠れるもの、迷える人間の智慧ではなくて、知れるもの、目覚めたるもの、悟れる人の智慧です。それは宇宙の真理を体得した、仏陀(覚者)のもてる智慧です。
真理の智慧、真理を悟った智慧、それがとりも直さず般若の智慧であります。

ものの道理
さてここで、一言申し添えておきたいことは、真理ということです。真理とはなんぞや?ということを、開き直って研究するとなると、たいへんめんどうな、むずかしいことになりますし、またそれを学問的に説明している余裕もありませぬが、一言にして真理とは何かといえば、それはつまり、いつ、どこでも、何人も、きっと、そう考えねばならぬもの、それが真理です。
むずかしくいえば、普遍妥当性(ふへんだとうせい)と思惟必然性とをもったものが真理です。時の古今、洋の東西を問わず、いつの世、いずれの処にも適応するもの、誰しもそうだと認めねばならぬものが真理です。古今に通じて謬(あやま)らず、中外に施して惇(もと)らざる、ものの道理、それが、とりも直さず真理です。西洋の諺に、「真理は時代の娘」という言葉がありますが、真理こそ、永遠の若さをもったものです。真理はまさしくいつの時代にも若鮎(わかあゆ)のように溌剌(はつらつ)とした若々しい綺麗な娘です。創造し、活動して、止まぬもの、それが真理です。けだし、永遠に古くして、かつ永遠に新しいもの、それが真理です。いや、永遠に古いものにして、はじめて永遠に新しいものだ、ということができるのです。真理といえば、真理についてこんな話があります。それはたしか、シルレルの書いたものだと思いますが、「覆(おお)われたザイスの像」という話です。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)