その昔、知識に餓えた一人の青年がありました。彼は真理の智慧を求むべく、エジプトのザイスという所へ行きました。そしてそこで、彼は、一所懸命に真理の智慧を探し求めたのでした。しかし、求める真理の智慧は容易に索め得られませんでした。
ところが、ある日のこと、彼は師匠と二人で、静かな、ある秘密の部屋の中に座ったのでした。そこには白い紛に蔽われた、一個の巨像が、深厳(しんごん)そのもののように立っていたのです。その時、青年は突然、師匠に対(むか)って、この巨像が何者であるかを尋ねました。
「真理!」
それが師匠の答えでした。これを聞いた青年は、おどろき、かつ喜びました。そして、思わず、「つね日ごろ、自分が尋ね索めている真理は、ここに隠されていたのか」と叫びました。
その時、師匠は厳かに青年にいいました。
「神自らが、この蔽いを、脱がせ給うまでは、決して、人間の清からぬ罪の手で、取り去ってはならぬ」
と。しかし、思いに悩んだ、その青年は、諦めても、 あきらめても、容易にそれを、あきらめきれなかったのです。
その夜、深更、ひそかに、彼はかの巨像が立てられてある部屋の中へ忍びこんで行きました。そこには、円(まる)天井の高い窓から、蒼白い月の光がさして、白い紗に蔽われた森厳な巨像は、銀色に照らされていました。
幾度も、幾度も、ほんとうにいくたびも、ためらった後、とうとう彼は意を決して、その蔽いを、とり去ってみたのです。
みたものは、果たしてなんであったでしょうか? 翌朝、人々は白い紗に蔽われた巨像の下に、色青ざめて横たわる一人の青年の、冷たい屍(しかばね)を見出しました。かの青年がみたもの、かの若者が経験したもの、彼の舌は、永遠にそれを語らなかった。
「正しからざる方法によって、真理を卸えんとしても、それは結局、無駄な骨折りに過ぎない」
と、最後に詩人は教えています。
けだし世に、真理を尋ね求める人はきわめて多い。しかし、それを探し求め得た人は、またきわめて少ないのです。私どもは、決してかの青年であってはならないのです。正しからざる方法によって、ザイスの巨像を見んとした、あの若者であってはならないのです。私どもは、どこまでも、真理への道を辿る、敬虔な求道者でなくてはなりません。しかも、真面目に、真理を思慕し、探究するものによってのみ、真理ははじめて把握し得られるのです。

道理と智慧
話がつい横道へ外れましたが、般若の智慧を、仏教では、実相と観照との二つの方面から説明しております。実相とは真理の客体で、観照とは真理の主体です。何人も認めねばならぬ、ものの道理と、それに合致する智慧が、つまりこの実相と観照との二種の般若です。そして、その般若の道理と智惹とを、文字によって示したものが、すなわち文字般若です。いずれにしても、これからお話し申し上げようとする「心経」は、要するに永遠に古くしてしかも永遠に新しい般若の真理を、雄弁に且つ力強く主張しているお経なのです。いつ、どこでも、何人も、必ずそう信ぜねばならぬ、不朽の真理を、きわめて直裁簡明に説いているのが、この「心経」です。般若の哲学、それは決して古いインドの哲学ではありません。般若の宗教、それは断じて、亡びた過去の宗教ではないのです。昔も今も、今日も明日も、いや未来永劫に光り輝く、人生の一大燈明なのであります。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)