ところで、この「華厳経」といつも対称的に考えられるお経は「法華経」です。平安朝の文化は、この「法華経」の文化とまでいわれているのですが、この「法華経」は、くわしくいえば「妙法蓮華経」でこれは「華厳経」が、「仏」を表現するのに対して、「法」を現わさんとしているのです。しかもその法は、妙法といわれる甚深微妙(じんしんみみょう)なる宇宙の真理で、その真理の法はけがれた私たち人間の心のうちに埋もれておりながらも、少しも汚されていないから、これを蓮華に誓えていったのです。
いったい蓮華は清浄な高原の陸地には生えないで、かえってどろどろした、汚い泥田のうちから、あの綺麗な美しい花を開くのです。「泥水をくぐりて清き蓮の花」と、古人もいっていますが、そうした尊い深い意味を説いているのが、この「法華経」というお経です。
自分の家を出て他所(よそ)へ「往く」その時のこころもちと、わが家へ「還る」その気もち、真理を求めて往くそのすがたと、真理を把み得て還るその姿、若々しい青年の釈尊と、円熟した晩年の釈尊、私はこの「華厳経」と「法華経」を手にするたびに、いつもそうした感じをまざまざと味わうのです。
右のようなわけで、 お経の名前は、それ自身お経の内容を表現しているものですから、昔から、仏教の聖典を講義する場合には、必ず最初に「題号解釈(だいごうげしゃく)」といって、まず題号の解釈をする習慣(ならい)になっています。で、私も便宜上、そういう約束に従って、序論として、この「心経」の題号(なまえ)について、いささかお話ししておきたいと存じます。

般若ということ
さていま『般若波羅密多心経(はんにゃはらみたしんぎょう」という字の題を、私はかりに、「般若」と、「波羅蜜多」と、「心経」との、三つの語に分析して味わってゆきたいと存じます。
まず第一に般若という文字ですが、この言葉は、昔から、かなり日本人にはなじみ深い語(ことば)です。たとえば、お能の面には「般若の面」という恐ろしい面があります。また謡曲の中には「あらあら恐ろしの般若声」という言葉もあります。それからお坊さんの間ではお酒の事を「般若湯」といいます。またあの奈良へ行くと「般若坂」という坂があり、また般若寺というお寺もあります。日光へゆくとたしか「般若の滝」という滝があったと思います。
こういうように、とにかく般若という語は、われわれ日本人には、いろいろの意味において、私どもの祖先以来、たいへんに親しまれてきた文字であります。しかし、この般若という言葉は、もともとインドの語をそのまま写したもので、梵語(サンスクリット)でいえばプラジュニャー、巴利(パーリー)語でいえば。パンニャーであります。ところで、そのプラジュニャーまたはパンニャーを翻訳すると、智慧ということになるのです。智慧がすなわち般若です。しかし、般若を単に智慧といっただけでは、般若のもつ持ち味が出ませぬから、しいて梵語の音をそのまま写して、「般若」としたのであります。こんな例は、仏教の専門語にはたくさんありますが、いったい一口に智慧といっても、その智慧には、いろいろな智慧があります。智慧のある馬鹿に親爺(おやじ)は困りはて」という川柳がありますが、あの智慧のある馬鹿息子がもっているような、そんな智慧は決して、般若の智慧ではありません。元来、仏教ではわれわれ凡夫の智慧をば仏の智慧と区別して、単に識(しき)といっております。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)