さて、五行を知ると、中には「なぜ、森羅万象を記述するのに五つの要素が必要なのだろうか。四でも六でも、あるいは七でも八でもよいのではないか」と、ふと思われた方もいらっしゃることであろう。この点について、古書中にも次のような解説を見ることができる。
例えば、6世紀頃の隋代に著わされた『五行大義』『五行大義全釈』中村埠八・藤井友子著・明治書院)には、《行が五というのは、万物多しといえども、数は五を過ぎざるを明らかにす。》とあって、世の中は一見複雑に見えるが、よくよく観察すると五つの基本要素があれば、そのすべてを記述することができる、と言われているのである。
「易経」には五行に関する直接的な記述は見られないが、「繋辞上伝」中の数理による説明中に、次のような五行に結びつく一文を見ることができる。
《天は奇数の一、三、五、七、九で示され、地は偶数の二、四、六、八、十で示され、天に五つの数があり、地に五つの数があって、天の数と地の数によって、五つの組み合わせができる。》そして、右文の後、《こうした数理は自然の摂理を反映しているもので、決して人為的なものではない。》とあり(訳は中国の思想VII『易経』徳間書店刊による)五行が五であることは万古不易の真理であって、この点に疑問を抱くことは許されないと言われているのである。このように「行がなぜ5なのか」と疑問を抱くことは、「人の指はなぜ5本なのか」ということに疑問を抱くことと同類のことと言えるのである。
四柱推命の実証的な面からして、五行は、人の身体的なこと、そして命運を論じるための概念として正当性があることは疑う余地はない。したがって、行が5で妥当性があるのは、地球という天休に暮らす、ヒトという生物の、なんらかの根源的な特性に関わっているのではないかと考えられるのである。
「四柱推命学入門」小山内彰 (希林館)より