現在の私たちの天文学的な知識からすれば、夕方西の地平線に沈んだ太陽が、翌朝には必ず東から昇ってくることは当然のことであるが、太陽系とか自転・公転に関する知識をまったく持ち合わせていなかった古代の中国人は、西の地平線に沈んだ太陽が、二度と昇って来ないこともあるのではないかと、不安を抱いたのではないかと想像できる。
そうした不安を抱いた理由は、太陽によってもたらされる四季の変化、そしてそれに伴う風物からもたらされる恩恵が、どれほど有り難いものであるかを、身に染みて感じていたからではないかと思われる。現在私たちは、なまじ天文学的な知識があるため、このような自然の循環に対して無感動になってしまい、地球が太陽の周りを回っていることは理解していても、太陽と自分自身の関係までは考えがおよばなくなってしまっている。
古代中国人は、自然科学に関する知識は乏しかったが、そのことがかえって幸いし、目の高さから自分が今生活している世界を理解しようとした。その結果、大地はあくまで不動であり、居住している場所から見渡すことのできる大空が何らかの仕掛けによって、昼夜と四季の変化を作り出しているという結論に到達した。これはごく自然な感覚であり、結論であると言える。
そして、頭上にある、昼夜、そして四季の変化をもたらす仕掛けに「天」という名称を与えた。「天」に対して不動の「地」を据え、天と地の間に「人」、つまり自身がある、という世界観を創り出したのである。
天の作用は地におよび、地はその影響を反映し、その間で人が生活する。しかし、天からも
たらされる造化(自然の摂理)の妙は冒すべきものではなく、地と人はそれに服従する。天子と言われた当時の中国の支配者は、天の意思、すなわち自然の摂理に従うことが政(まつりごと)を行なう上で必要不可欠なことと考え、天の運行の基本原理を理解する方法として、陰陽五行論を創り出したのである。
「四柱推命学入門」小山内彰 (希林館)より