中国における四柱椎命の呼称の一つである子平は、徐居易の字(あざな)である子平に由来しているという説があるが、子平という言葉自体に四柱推命に通じる意味合いがあるので、子平が徐居易の字であったことは確かとしても、その字が四柱推命の呼称の起源になったかどうかは不明である。ちなみに、字とは、男子が成人後に付ける姓名とは別の呼び名である。
右文に続いて、四柱推命の達人として歴史にその名をとどめている人物の名が列挙されている。戦国時代(紀元前3世紀頃)に、路珠子、鬼谷子があり、漢代に至って、董仲舒、司馬季主、東方朔、厳君平があり、三国時代には管軽、晋には郭瑛、北齊には魏定があり、唐代に至って、衷天綱、僧一行、李泌、李虚中が現われ、五代になって、希夷先生(陳希夷)そして徐子平が現われたとされている。つまり、徐子平が活躍したのは10世紀頃となり、日本は平安時代で、『源氏物語』とか『枕草子』といった女流仮名文学が隆盛を極めていた頃ということになる。
また、徐子平の書の表題は『路珠子三命消息賦註』(別名『元理消息賦註』)といい、路珠子という戦国時代の人物の書の注釈本という形をとっている。徐子平の註釈本のおかげで、『三命消息賦』の原文が今に伝えられているのであるが、註の著者が徐子平であることは確かなようではあるが、原本の『三命消息賦』自体の作者は洛珠子ではなく、後の時代の何者かによる、というのが通説になっている。
結局のところ、文献考証的に四柱推命がいつの時代に、誰によって創始されたのかについて考証する手だてはないのが事実と言える。
しかしながら、現存する四柱推命の書の中で内容的に最も素晴らしいとされているのは、13世紀頃、元代後期から明代の初期にかけて活躍した伯劉基(1311~1375)によって著わされたとされている『滴天髄』である。伯劉基は萬民英と同様に政治家であるが、名臣として歴史に名をとどめており、「人名辞典」にその名を見ることができるほどの人物である。伯は一芸に秀でた人への敬称であるので、後の時代につけられたもので、「人名辞典」には劉基で掲載されている。また、伯劉基と劉伯温は同一人物である。
伯劉基も「滴天髄」を著わすにあたり、当時入手可能であった何らかの文献を参照したことであろうが、そうした点はまったく知る手だてがない。いずれにしても700年ほど前には、四柱推命は人の命運を論じる方法として体系的に確立していたことだけは、『滴天髄』の内容から知ることができるのである。
その後、清の時代に入り、16世紀には陳素庵相国(相国は官職名)の「命理約言」「滴天髄輯要」(『滴天髄』の註釈本)があり、17世紀には、沈孝戦が『子平眞詮』、18世紀には任鐵椎の『滴天髄蘭微』(同じく『滴天髄』の註釈本)があり、清代末から近代にかけて徐架吾が活躍し、多くの書を残したものの「滴天髄」を超えることはできず、現在に至っているのである。
「四柱推命学入門」小山内彰 (希林館)より
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