連載・知識の武装 最終回
知識の武装
――日本の現在地と、私が書いた一行のこと
前回の最後に書きました。エリュールが正しいなら、知識は防具にならない。ならば、この連載の題名は間違っていたことになる、と。
その始末をつけます。
一 題名は、間違っていたか
半分は、間違っていました。
第四回で見たとおり、エリュールによれば、情報に多く接している人ほど動かされやすい。読めば読むほど強くなる、という考えは、彼の分析では成り立ちません。
知識の量を増やすことを「武装」と呼ぶなら、私の題名は誤りです。
ただ、もう半分は残ると思っています。知識には、二つの種類があるからです。
個別の知識と、構造の知識
一つは、個別の事実です。誰が何を言ったか、どこで何が起きたか。これは、いくら積んでも防具になりません。むしろ、積むほど条件が整います。
もう一つは、型についての知識です。
この連載で扱ってきたのは、こちらでした。法は壊されず空洞化される。嘘をつかずに事実を配置する。既にある傾きに接ぎ木する。誰も指令しないのに規範が生まれる。
これらは、個別の事実ではありません。事実の並び方についての知識です。
個別の知識は、新しいものが来るたびに更新が要ります。型の知識は、一度掴めば、初めて見る事例にも当たります。
ただし、正直に書いておきます。型の知識も、完全な防具ではありません。
手口を知っている人が、その手口にかかった実例はいくらでもあります。むしろ「自分は知っているから大丈夫だ」という確信が、第四回の第三条件そのものになる。
ですから、これは鎧ではありません。もう少し弱い、姿勢のようなものです。
二 日本の現在地
五回分の道具を、いまの日本に当ててみます。
断っておきますが、ここに書くのは私の見立てです。それぞれ反論が可能です。むしろ、反論できる形で書くように努めました。
情報の飽和
いま日本で、報道を統制する必要はありません。すでに供給が過剰だからです。
一日に流れてくる量が処理能力を超えていれば、人は判断を放棄します。放棄した先に、判断を代行してくれる説明が待っている。第四回で見た機構です。
これは誰かの仕業ではなく、装置の性質です。だから直りません。
責任の所在
何かが起きたとき、誰の判断だったのかが最後まで分からない。日本の組織で繰り返し見られます。
会議の記録が残らない。決裁の経路が複雑で追えない。担当者が異動している。
ジョリのマキャヴェリが述べた「手続きの複雑化」と、形は同じです。ただし、こちらに設計者はいません。効率と円滑を求めた結果として、そうなっている。
私が政策提言で一貫して記録を求めてきたのは、ここが理由です。禁止より、残すこと。
教育の時間差
教育で変わったものは、変わった当人には見えません。効いてくるのは二十年後です。
逆に言えば、いま私たちが常識だと思っていることの一部は、二十年前に誰かが選んだ結果です。
ここで気をつけるべきことがあります。この構造は、どの立場が教育に関わっても同じように働きます。自分と違う考えの人が教育に入るときだけ危険で、自分と同じ考えの人が入るときは安全だ、ということはありません。
対立軸のこと
これは、書きにくいことです。
日本の言論には、いくつかの対立軸があります。それぞれに支持者がいて、それぞれに媒体があり、互いを批判しています。
ジョリのマキャヴェリなら、こう問うでしょう。その対立は、本当に別の枠組みの間にあるのか。同じ枠の中で役割を分けているだけではないか。
私は答えを持っていません。ただ、問いを持っていることには意味があると思います。
技術の層
前回書いたとおりです。推薦アルゴリズムと生成AIは、エリュールの「社会学的プロパガンダ」の定義を、いまのところ最もよく満たしています。
誰も指令していない。悪意もない。だから止める理由を誰も持たない。
三 道具を、まとめておく
五回分から、実際に使えるものを集めます。冷蔵庫に貼っておく程度のものとして。
一 まず、自分の側に当てる。
支持している人、共感している媒体。そこを先に点検する。何も出てこなければ、検査が甘い。
二 誰が費用を出しているか。
発言者ではなく、発言の場を用意した側を見る。
三 どんな質問だったか。
調査結果を見たら、設問と選択肢を探す。数字を疑うより、質問を見る。
四 私は何を感じたか。
同意でも反発でも、強く動いたときは、そこが設計されている可能性が高い。
五 安心させるものを、警戒する。
怒らせるものより、腑に落ちるもののほうが深く入る。
六 意見を持たない自由を、自分に許す。
「分からない」と言えることは、弱さではなく余力。
七 知る範囲と、手の届く範囲を近づける。
遠い国の情勢より、自分の町の議会。知識が行動につながれば、無力感が生じない。
八 実在する少数の人と、話し続ける。
意見の合わない相手が一人でもいれば、それが最後の安全装置になる。
八つのうち、最も効くのは八番目です。そして、最も難しいのも八番目です。
年を重ねるほど、意見の合わない人と話す機会は減ります。職場を離れれば、なおさらです。放っておけば、周りは同じ考えの人ばかりになる。
それは自然なことですが、防具を一枚ずつ外していく過程でもあります。
四 私が書いた一行のこと
この連載の発端は、私の古い原稿でした。最後に、そこへ戻ります。
あの原稿を、私はこう結んでいました。
全て、日本に当てはまります。手遅れになる前に、目を覚ませ日本人。
第一回で削ったのは、その少し前にあった偽書への言及でした。しかし、いま連載を書き終えて見直すと、問題はむしろ、この最後の一行にあります。
三つ、気づいたことがあります。
一つ。この一行は、誰に向けて書かれていたか。
「目を覚ませ」と呼びかけて届くのは、すでに目を覚ましていると思っている人です。同じ不安を持っている人が読んで、深く頷く。考えの違う人には、届きません。
つまりこれは、説得の言葉ではなく、結束の言葉でした。エリュールの言う統合型に近い。
二つ。行動につながらない。
目を覚まして、それからどうするのか。書いていません。読者は不安を確認して、共感して、そこで終わります。第四回で見た「知っているのに何もできない」状態を、私は増やしていた。
三つ。これを書いたとき、私は気持ちがよかった。
これがいちばん重要です。書いていて高揚していました。分かっている側に立っている感覚がありました。
第三回の四つ目の問い――「私は何を感じたか」。あのとき自分に問うていれば、気づけたはずです。
誰かに騙されたわけではありません。私は自分で書きました。
しかし、その形式は、私が自分で発明したものではない。どこかで繰り返し見た型を、なぞっていました。
外から来たものだという感覚が、まったく残らない。第四回に書いたとおりのことが、自分の原稿で起きていました。
五 では、何と書くべきだったか
あの一行を、いまなら書き換えます。
まず、呼びかけをやめます。「日本人」という大きな主語で語るのを、やめる。私はその全員を知りませんし、代弁する資格もありません。
次に、書ける範囲を狭くします。ルーズベルト政権に協力者がいた件は、資料に基づいて書けます。そこまでです。そこから現在の日本まで一気に線を引くのは、私の手には余ります。
そして、読んだ人が何かできる形にします。
たとえば、こう。
ヴェノナ文書は公開されている。国立公文書館の資料も読める。関心があるなら、二次的な解説ではなく、そこから確かめてほしい。
そのうえで、私と違う結論に至ったなら、聞かせてほしい。
地味です。高揚もしません。しかし、こちらのほうが、私が本当に言いたかったことに近い。
六 武装とは
第一回の末尾に、こう書きました。
武装とは、身につけるものです。誰かに守ってもらうことではない。
六回書いて、この意味が少し変わりました。
始めたときは、知識を身につければ守れる、という意味で書いていました。いまはそうは思っていません。
身につけるべきものは、知識そのものではなく、自分の反応を観察する習慣のほうだと思います。
納得したとき、そこで一度止まる。気持ちよくなったとき、なぜかを考える。反対意見に接して不快になったとき、その不快が判断の材料になっていないかを疑う。
これは知識ではありません。作法です。そして、一度身につければ終わりというものでもない。日々、外れます。
私自身、この連載を書きながら何度も外しました。書き上がった文章が整っていると、それだけで正しく思えてくる。前回書いた警戒が、自分に返ってきます。
ですから、最後にお願いすることは一つだけです。
この連載に納得された方は、ここに書かれた八つの問いを、この連載自体に当ててみてください。
私は当てました。三つ目と四つ目に、出てきました。
七 終わりに
七十を過ぎて、こういうものを書き直す機会が来るとは思っていませんでした。
きっかけは、自分の古い原稿を読み返して「結構頑張っていたな」と思ったことでした。頑張ってはいたのです。ただ、頑張った先の一部が、間違った方向を向いていた。
それを教えてくれたのは、人ではありませんでした。第一回と前回に書いたとおりです。
ただし、前回も書いたとおり、それは道具の使用であって、関係ではありません。私に本当に必要だったのは、間違いを指摘されたときに、腹を立てながらも受け取る用意のほうでした。それは道具の側からは供給されません。
もし、いま古い原稿を抱えている方がいらしたら。読み返してみてください。恥ずかしいものが出てくるはずです。
出てくるということは、その間に何かが変わったということです。何も出てこないほうが、心配です。
この連載で扱った三冊
モーリス・ジョリ『マキャヴェリとモンテスキューの地獄での対話』(一八六四)
エドワード・バーネイズ『プロパガンダ』(一九二八)
ジャック・エリュール『プロパガンダ』(一九六二)
いずれも著者と成立事情が明らかで、出典として示せる。それが、偽書との決定的な違いです。
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初出
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#知識の武装 #プロパガンダ #エリュール #メディアリテラシー #ソボクナ疑問
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