第五章・いのちの時代 連載第百三十七話 吉方の昼餉

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第五章・いのちの時代 連載第百三十七話 吉方の昼餉

第五章・いのちの時代
連載第百三十七話「吉方の昼餉」

定年を迎え、筒田先生の近くで日々を過ごせるようになったことを、彼は素直に喜んでいた。だが、その喜びの傍らで、先生の認知症は、静かに、しかし確かに、進んでいた。先生は夜を、ある老人ホームで過ごされ、夕食と朝食も、そこで召し上がる暮らしをされていた。ご自宅からその施設までは、自転車で数分の距離である。

彼が世話を担うようになった後半には、先生が自転車に乗ることは、もう難しくなっていた。そこで彼は電動三輪車を求め、先生に乗っていただけるようにと支度を整えた。けれど、操縦に何か違和感があったのだろう、先生はほとんどお乗りにならなかった。残念ながらその三輪車は、後にオークションで手放すことになった。今にして思えば、あれは、失われてゆくものを、道具でつなぎ止めようとした、ささやかな抵抗だったのかもしれない。

先生の一日を、ここで追ってみたい。彼が事務所に着いて、まず最初にすることは、先生の車を借りて、老人ホームへお迎えに上がることだった。認知症が進んでからは、車での送迎なしに、施設と自宅を往復することは、ほとんど不可能になっていたからである。そのころの先生は、彼が誰であるのか、心もとない様子だった。それでも、いつも優しくしてくれる介護職員を見るような、穏やかな目で、彼を見てくださっていたのではないか、と感じる。

ご自宅にお連れすると、先生との会話が始まる。まだらに意識が戻ってこられるようで、奥多摩の山荘や、八ヶ岳の山荘の管理について、次々と指示が出た。彼はその指示に従って、手を動かした。おかげで奥多摩の山荘はほぼ片付けが終わり、八ヶ岳の山荘も、六割がたの不用品の処理を済ませて、人が住める環境が整っていった。

多磨塾が最も大きかったころには、赤城山のふもとにも山荘があったという。奥多摩、八ヶ岳、赤城――その三か所で、子どもたちの合宿を営んでいたのだ。指示を書き取りながら、彼は、自分の知らない最盛期の塾の賑わいを、先生の言葉の端々から、そっと思い描いていた。

午前中は、多磨塾のこれからについて、二人でいろいろと話をした。その大部分を、彼は大学ノートに書き写した。そのノートは、今も手元に残っている。彼自身は、いつか多磨塾に戻って働くつもりでいた。けれど、この数十年の時の流れは、子どもたちの環境も、親の環境も、すっかり一変させてしまっていた。かつては比較的たやすく子どもたちと山へ入れたが、時代は変わり、おいそれと子らを山荘へ連れてゆくことは、ひどく難しい環境になっていた。

子どもたちを送り出したあとの先生の人生は、今度は大人のための塾へと傾いていったように思う。先生ご自身も、福祉施設に入って、その内側を生身で体験され、人生の後半に親子の関係が崩れてゆく様を、いやというほど見てこられた。だからこそ、そこに備えることの大切さを、繰り返し説かれていた。

そんな話をしているうちに昼になると、彼は先生を車で昼食にお連れした。その日の先生の吉方位を目指し、その方角にある食事処を求めて、二人は方々を動き回った。時には横浜まで足を延ばし、東京スカイツリーまで出かけたこともある。塔に登ることは、ついになかったが、先生は下からその巨大な構築物を見上げては、しきりに感心しておられた。そんな日々が、三年ほど続いただろうか。

やがて、自宅から施設へ戻る段になると、先生は次第に、それを拒まれるようになった。車から降りようとされない日が、少しずつ増えていった。その姿に、彼はどうしても、先妻のことを重ねずにはいられなかった。癌の治療で入院していたあのころ、妻は幾度も「家に帰りたい」と口にした。その言葉を聞くたび、彼は胸をかきむしられるような思いをした。――先生もまた、人生の大半を過ごしたご自宅こそが、何より過ごしやすかったのだろう。慣れ親しんだ場所を離れがたいという、その心だけは、霧の向こうでも変わらなかったのではないか。

歳月を経た今、振り返って、思う。吉方位を探して、あてもなく車を走らせたあの昼下がりには、目的地など、どこにもなかったのかもしれない、と。ただ、先生と同じ時間を、少しでも長く分かち合いたかった。それだけだったのだ。

生かされて、今を、存在する。導いてくださった師の、その霧のかかった晩年に寄り添えたことを、自分は今、ひとつの巡り合わせとして受け取っている。

車の助手席で、遠いスカイツリーを見上げ、目を細めておられた先生の横顔を、今も、自分は、確かに、覚えている。


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