第五章・いのちの時代 連載第百三十一話 悪魔の薬

彼自身は、健康に恵まれて、便秘というものを、経験したことがない。
だが、高齢者の施設にかぎらず、ふつうの暮らしにおいても、便秘は、大きな問題なのだろうと思う。とりわけ、体を動かせない方にとっては、それは切実な、いのちにかかわる問題ですらあった。
介護職員のあいだで、「悪魔の薬」と呼ばれていたものがある。ラキソベロンという、下剤だった。
通常は、一滴か、二滴。そう決められている。けれど、それでは効かない方もいる。すると、ジャッと入れる。ナースによっては、そうする人もいた。彼はその是非を言おうとは思わない。ただ、決められた量では動かない体が、そこにあった。動かさなければ、それはそれで、いのちにかかわる。決められた量と、目の前の現実とのあいだで、判断が下されていた。それだけは、事実だった。
下剤を処方された利用者のことは、夜勤の申し送りのときに、伝えられる。そして、その数が増えれば増えるほど、夜勤の排泄介助の手間は、驚くほど変わってくる。一人増えれば、その分、夜は動く。数人ともなれば、夜勤の様相が、まるきり変わる。薬の一滴が、そのまま、深夜の労働の量になる。
そして、これは、どんなベテランでも、避けられないことがあった。おむつの当て方、ひとつ。そのわずかな差で、汚物がおむつの中に収まるか、外へはみ出るかが、決まってしまう。
昼勤の時間帯に、入りたての新人が当てたおむつが、うまくいかなかったとき。夜、その部屋に入って、彼は、何度か、「悲劇」に出会った。
言葉を選んでも、選びきれない。ご利用者が、汚物の海に漂っている、と言うのが、いちばん正しい表現だった。
その方に、罪はない。当てた新人にも、悪気はない。ただ、技術が、まだ、そこに追いついていなかった。それだけのことだった。けれど、その結果は、そのまま、一人の人間の尊厳の問題として、そこに横たわっていた。
そういうとき、その夜、彼と組んだ介護者が、ご利用者に寄り添う人であれば、こうした。夜勤の最中に、特別浴を稼働させる。そして、その方を、湯に入れて差し上げる。深夜に、浴室を動かしてでも、その方を、きれいにして差し上げる。そういう処理をしたことが、数回、あった。手順の上では、そこまでする必要はなかったのかもしれない。けれど、汚物の海に漂わせたまま、朝まで放っておくことは、できなかった。
彼には、子どもが生まれたときに、その汚物の処理をした経験がある。けれど、大人の汚物の処理は、その量の多さから、やはり、しり込みするのが当然だった。それは、覚悟のいる仕事だった。
入りたての者が、この「惨状」に出会えば、おそらく、その時点で、入職を辞退するだろう。それほどのものだった。彼は、そのことを、責めない。逃げ出したくなる気持ちは、よくわかる。それでもなお、そこに残り、深夜に湯を沸かした者たちがいた。そのことを、彼は、書いておきたいと思う。
歳月を経た今、振り返って、思う。
介護の現場には、美しい言葉では覆いきれない現実が、確かにあった。汚物の海も、悪魔の薬も、深夜の特別浴も、すべて、本当のことだった。そして、その本当のことの真ん中で、それでも人の尊厳を守ろうとした者たちが、確かにいた。きれいごとではない場所でこそ、人の値打ちは、はっきりと見えるのではないか。
生かされて、今を、存在する。
深夜の浴室に湯を張って、汚物の海から救い出した方を、そっと湯に沈めて差し上げた、あの夜の湯気の温かさを、今も、自分は、確かに、覚えている。
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