第四章・覚醒の時代 連載第九十一話 牧先生が、中野の事務所を、たたまれる

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第四章・覚醒の時代 連載第九十一話 牧先生が、中野の事務所を、たたまれる

第 四 章 ・ 覚 醒 の 時 代

連載第九十一話

玉川上水へ

牧先生が、中野の事務所を、たたまれる。

その知らせを、若い夫が、いつ、受けたのか。正確な季節までは、覚えていない。ただ、長く中野にあった、あの場所が、なくなる、ということだけは、はっきりと、覚えている。

中野の事務所。姓名科学の、あのコンピューターが、置かれていた場所。若い夫が、何度も、足を運んだ場所だった。妻を失った後、地獄のような日々の中で、先生のもとを、訪ねた場所でもあった。

その事務所が、玉川上水へ、移る。

引っ越しの日、若い夫は、手伝いに、伺った。

何を運んだのか、細かいことは、覚えていない。荷を、運んだ。汗を、かいた。先生と、言葉を、交わした。けれども、その一つ一つを、若い夫は、今、思い出せない。霞の中のように、茫洋としている。

ただ、覚えているのは——この引っ越しが、ただの引っ越しでは、なかった、ということだ。

先生は、その先に、福岡への隠居を、考えておられた。玉川上水は、その、通過点だったのかもしれない。師の人生が、ひとつの、次の章へ、向かおうとしていた。若い夫は、それを、言葉にこそ、できなかったが、どこかで、感じていた。

師の人生の、その向きが、やがて、若い夫自身の、人生の、次の転機を、引き寄せていくことになる。けれども、その日の若い夫は、まだ、そのことを、知らなかった。

ただ、荷を運び、汗をかき、先生の傍に、いた。それで、十分だった。

生かされて、今を、存在する。

玉川上水へ向かう、あの引っ越しの日のことを、四十年に近い時を経た今、自分は、確かに、覚えている。


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