では、医師に「社長」に当たる人間はいるのでしょうか。病院勤めなら、理事長や医院長がそうかもしれません。
でも医療は、不特定多数(患者)になされるものです。これまで蓄積されてきた医学の普逼的法則と定められた医療技術に従わなければいけません。いくら理事長が、「コスト削減のために手術は1時間以内に終えろ」と言っても、それに従うわけにはいかないのです。
では何に従ったらいいのでしょう?
仮に戦争中だとしましょう。医師であるあなたは、野戦病院に動員されました。毎日、負傷した兵士が運び込まれてきます。その中に敵兵がいたとしましょう。どうしますか? さて、「戦争」に従うのなら、敵をたくさん殺すことが「正義」となります。毒薬を注射して、殺してしまうという選択もあるでしょう。
しかし多くの医師は、そんな選択をしません。おそらくリンゲル液を注射して、助けるのでしょう。
なぜでしょうか?敵兵といえども、負傷した時点で、医師から見ればおしなべて「人間」だからです。もし「敵兵だから」という理由で、味方兵と治療の仕方を変えていたら、医療は成り立ちません。だって、それでは、好き嫌いで医療行為をする、ということになってしまいますから。医師はそもそも、常日頃から「不特定多数」の患者を扱っているのです。
こうした「利敵行為」とも受け取れる戦時下の医療行為が、どうして可能かというと、医師の「正義」は、「命」によって導かれるものだからです。ソクラテスの弟子のプラトンは、「義務を果たすことが正義である」と説きました。これが西洋流の正義の考え方です。この「義務」が、医師の場合、「命を救うこと」だというわけです。
私はよく周囲から「口が悪い」と言われます。「遠慮しないでずけずけ言う」ともよく言われます。これにはきちんとした理由があるのです。医師が「命」を最上位価値に置いているように、研究者である私は「真理」を最上位に置いているのです。「真理の探求」がもっとも価値のあるものだと自覚していますので、他人にもこう言っているのです。
「私は、他人の心には配慮しませんよ。私が真っ先に配慮するのは、真理です」
医師、裁判官、牧師……こうしたいわゆる専門家は、何かしらの一般人と異なる最上位価値を持っているのです。逆に言うと、そういう価値基準を持っているからこそ、「専門家」と呼ばれるのでしょう。
こうした専門家集団は、さまざまな縛りがあります。医師だったら、「安楽死」の問題もそうでしょう。中には、チューブにつながれて植物状態で生きながらえるより、安楽死を選んだほうが、本人も幸せなんじゃないか、と思う医師がいたとしても、日本では、最初の時点で、延命治療を受けないことを選択することはできますが、いざ始めてしまったものを、途中でやめることができません。「安楽死」という選択は、命を勝手に途中で分断することですから、
許されていないのです。植物状態の患者を安楽死させた医師は、逮捕されてしまいました。
専門家というのは、社会に直接対応しているので、自分勝手には動けないのです。例えば、裁判官は法律を作ることができません。牧師は経典を作ることはできません。医師も治療法を自分で作ることはできないのです。
それはそうですよね。裁判官が法律を作れるのなら、判決はいかようにも操作できてしまいます。牧師が教典を作り始めたら、それは牧師ではなく、もはや教祖です。医師が自分の好きなように治療を始めたら、治る病気も治りません。
『「正しい」とは何か?』武田邦彦著 小学館より