砂漠の緑化に似た話が風力発電でも見られます。
ある新聞に風力発電の開発の状況やデンマークにおける風力発電の利用の状態を紹介し、「日本電力の大半を風力発電でまかなえばよい」という解説がなされていました。このような話題はときどき、大々的に取り扱われます。たとえば太陽電池や海洋発電、地熱発電などがその例で、どちらかというと新聞社は比較的「自然エネルギー」に注目しているようです。
風は太陽エネルギーが偏ったために発生した局地的なエネルギーの一つの形です。したがって風力発電は「風というエネルギーを電気のエネルギーに変換するエネルギー変換操作」ということができます。ということは、エネルギー保存則が適用されますから、風から電気を取り出すと電気を取り出しただけ風が弱くなるということになります。また、風から電力を取り出すときも「変換効率」を考えなければなりませんので、もし、それが四〇%とすると一〇キロワットのエネルギーを持つ風からニキロワットの電力を発電しますと、三キロワットが熱となって無駄になり、結局、風は五キロワットと弱くなる計算になります。
熱力学と工学の効率から弱い風は電力に変換することは非現実的なので、強い風が求められます。また風のエネルギーは毎日の太陽の光で発生しますので、太陽電池と同じようにエネルギー密度が薄いのが特徴です。しかし、風は局地的に激しく吹くところがあり、そのようなところで風力発電を行うのは良い場合があります。
風は何のために吹いているのでしょうか?
風が吹かなければ海から水は蒸発しません。もし風が全くなければ水面の空気は変わらないので一定の湿度分布ができ、それ以上びくとも動きません。海や川、そして陸地の湿気はとれず、雨は降らず、森の木々の間を吹き抜ける風はなくなり、洗濯物は乾かず、そして花の種は飛ぶことができません。現在の地球の生態系は「現在の風の量と力」が前提でできているのであり、風の量が減れば自然は変化すると考えなければいけません。
風は自然のエネルギーです。だから「みんな」が利用しています。「みんな」というのは人間だけではなく、動物、植物、鉱物など私たちとともに生活をしているものすべてを意味しています。風力発電に関する多くの論評を見ると、人間は自然との関係でいかに人間本位であるかがわかります。「環境を大切に」「自然と共存」といいながら、風は自分たち人間のためだけに吹いていて生態系とは無関係と錯覚するのです。「風力発電を増やせ」という新聞に掲載される長い論説が、風力発電の有効性を論理的に述べ、それが「自然に優しい」ことを強調します。しかし、風から電力をとることが生態系にどのような影響を与えるのか、どの程度までなら自然を守れるのかについて一行も書いていないのです。
しかし逆説的ではありますが、人間もまた自然の一部であり、自然は人間を含めて自然であると考えると、人間が勝手に自然を痛めてもその姿こそが自然であるといえないこともありません。多少詭弁じみたこの議論も環境問題を深く考える上では、よく噛みしめた方がよいように思います。

自然と人間の関係はとても複雑で一つの論理で全部を通して説明することは困難なのです。そしてその中には人間の価値観や自然観など独特のものが含まれるからです。現在のリサイクルや環境問題に対する議論の大きな欠陥は、自然と人間に関する複雑な関係を見逃していたり、複雑であることから起こる多面的な現象や見方を単純にしようとするところにあります。特に、社会的な運動は単純な方向に進みがちです。
かつて人間社会は自然界で起こる複雑で理解できないことを「魔女の仕業」などという単純なことにすり替えて多くの犠牲者を出してきました。「鬼畜米英」と叫んで戦争に突入したのもその一つの例かもしれません。しかしものを単純化してある方向に持っていき、その結果、真面目な多くの人が犠牲になることを、もっと真剣に考えなければならないでしょう。
リサイクルはゴミの量を増やし、ゴミの分別は日本を走るゴミのトラックを大幅に増やします。トラックからの排ガスは増え、ゴミの持つ毒は薄く広くまき散らされます。そして、日本はリサイクルによって徐々に汚染された列島となるでしょう。
『リサイクル汚染列島』(青春出版社)武田邦彦著より