歴史の運命の一変は一九一七年のロシア革命以降です。ロシア革命というのは、プロレタリアート主導の社会主義革命だったとの誤解が世を覆っています。当時はロシア・ユダヤクーデターと呼ばれた事件でした。マルクスがユダヤ人なのは周知ですが、レーニン、トロツキー、ジュノビエフ、カメーネフなど指導者の殆どはユダヤ人なのです。先の章でも触れましたが、ルーズベルト大統領もユダヤ人です。第一次大戦の敗戦国ドイツは「社会主義革命」の危機に陥りました。有名な指導者、ローザ・ルクセンプルグやカール・リープクネヒトたちもユダヤ人です。敗戦国ドイツはワイマール共和国となりますが、主要な指導者をユダヤ人とするユダヤ・ドイツと目されていたのです。
これらへの激烈な反動がナチズムですが、ナチを逃れて多数のマルクス主義者がアメリ力に亡命しました。コロンビア大学やハーバード大学を拠点にしたフランクフルト学派(シューレ)はつとに有名です。ルーズベルト政権を支えたニューディーラーと呼ばれる一群の人々はマルクス主義者なのです。ルーズベルトもコロンビア大学を出て、ハーバードの大学院を出ています。ルーズベルト政権の主要なスタッフの内、二百数十人、正規職員以外では三百 人を下らないマルキストが含まれていました。この中には当然に、ソ連やコミンテルンの要員が含まれていたことが「ビエノナ文書」等により明らかになっています。このことは、現在の問題に直結していることなのです。マルクス主義を古臭いと感じる向きは、ちょっと認識を改めていただきたいものです。一九一七年のロシア革命の成功は当時の言葉でいえば、ユダヤクーデターの成功なのです。マルクス主義の勝利と錯覚されたにすぎません。
アメリカで『西洋の死』(パトリック・J・ブキャナン著 二〇〇二年)が出て衝撃を与えました。日本では『病むアメリカ、滅びゆく西洋』(宮崎哲弥監訳・成甲書房)として刊行されています。このフランクフルト・シューレの理解を抜きには、今の日本や世界の世相の病根を理解することはできないでしょう。
ロシア革命の後、ハンガリー革命に敗れたルカーチは、ソ連に亡命しました。次々に敗北していくヨーロッパ革命の退潮を見て、彼は革命が起こらない原因を次のように考えました。それは人民の頭を縛る文化の力と考えたのです。彼は著書『歴史と階級意識』の中でプロレタリアートだけではない人間全体の「自己疎外」からの解放、つまり古い価値観の廃絶・それに替わる新たな価値観なしには革命の成就はありえないと考えました。一時勝利したハンガリーの革命政府で、彼は教育人民委員(教育大臣)代理に就きました。彼は自分の理論を実践しました。学校の生徒たちは恋愛の自由や古い性道徳からの脱却を教えられました。女性は古い性道徳から脱却するように求められました。疎外からの脱却ということから、あらゆる「文化」規範が批判の対象となったのです。女性の貞操観念などは反革命的と嘲笑されました。
キリスト教、教会、家族制度、父権、権威、性的節度、伝統、国家、愛国心、尊敬心ありとあらゆる徳目や「価値」は批判されなければならないとされました。ハンガリー革命が再び敗北すると、彼はワイマール共和国(ドイツ)に逃れフランクフルト大学にマルクス研究所を創設しました。一九二三(大正十二)年のことです。「古い」マルクス・レーニン主義は自覚しないままに権力奪取に成功してしまったのだ、と彼は考えました。彼のこの考えには明らかにマックス・ウェーバーの影響があります。一言だけすれば、資本主義杜会の誕生には、資本主義の精神(エトス)が産業革命等を指導したからだと彼らは考えたからです。マックス・ウェーバーもユダヤ人です。革命意識に鋭く目覚めた一団の「前衛」たちが、文化破壊の状況のロシアを突破して革命に成功したと考えたのです。この ように人間を疎外している文化を破壊しなければ共産主義には到達できないのです。革命の主導者は疎外された労働者ではなく知識人でなければなりません。なぜなら、「批判理論」を駆使し、諸学問を学際的に結合し、資本主義社会の構造を批判の対象として構造化できるのは知識人だからです。インテリゲンチュアこそ物象化の止揚の任務を担う主体なのです。フランクフルト学派というのはコミンテルン的な旧式なマルクス・レーニン主義と違って(重なった部分も大きいが)、知識人向きのマルクス主義として大学・メディアの世界に広がっていきました。マックス・ホルトハイマー、ハバーマス、アドルノ、フロム、ラィヒ、ベンヤミン、マルクーゼたちが有名ですが、日本国憲法制定工作で名の出るノイマンも、その一人です(先出)。日本人では、あの福本イズムの福本和夫氏が初期の紹介者です。
さて、マッカーサーです。彼は総司令部の最高司令官ですが、部下の多数のニューディーラーたちの跋扈と、その正体を知り衝撃を受けたようです。農地改革も財閥解体、そして日本国憲法などはニューディーラーたちの「遺産」なのです。
安倍政権が教育改革や憲法改正に意欲を見せましたが、根は深いのです。戦前の日本も深い部分には、マルクス主義者の潜伏を抱えていました。ゾルゲ・尾崎の事件が有名ですが、この事件は露頭部の一部に過ぎません。ニューディーラーたちの改革によって、戦後の日本の言語空間はマルクス主義者たちの支配するところとなったのです。日本の大学やマスコミ世界の現状は、敗戦日本の戦後利得者の利権構造にほかならないのです。
日本で有名なフランクフルト学派の人物の名をあげておきましょう。都留重人氏です。アメリカ共産党のポール・スウィージーとの親交も知られています。都留氏の同志がノイマンです。ちなみに都留重人氏の岳父は和田小六であり、和田氏は東工大の学長にもなりますが、彼は木戸幸一内府の実弟です。昭和天皇のすぐ側までコミンテルンの影が見え隠れしています。日本の大学の人事に通じている人なら、巨大な左翼支配の利権構造が直ちに理解できることと思います。
高校教師の世界も同じです。殆どの都道府県で教育委員会の最高幹部の中に「隠れキリシタン」ならぬ、隠れマルキストがいます。現に文部省の最高幹部(事務次官)は「カクメイをやるには入るしかない」と若き日には公言していました。彼は今日の「ゆとり教育」なる教育破壊の責任者のひとりです。名など知る人ぞ知るです。彼は文部省(旧)のキャリアとして入省していきました。彼らの生き方のモデルは騙しも可のマルクーゼです。彼はライヒやフロムを引きながら父権の確立した家族、つまりは権威主義的家族は全体主義や軍国主義の基盤になるから、家族ではなく個人の人格を尊重する家庭にならねばならないのだと言っています。そして次官君は、民主教育の理論を体した者こそが、教育界を指導しなければならないとルカーチを賞讃していました。
「俺は国家の中枢に入るつもりだ。プロレタリアートなんぞ、いまは幻想だ。二・二六(事件)で、俺は一個中隊を指揮したかった。諸君もこれからどんどん国家の中枢に入れよ。総評(当時)なんかにいくら説教しても革命は来ない。中からそして上から知力と権力で革命はやるのだ。マルクスも『ドイツ・イデオロギー』あたりではそう言えばよかったのだ。マックス・ウェーバーはマルクスの裏を取ったのだ。ルカーチはそれを知ったのだ。
だから潜るさ………」章末を一読下さい。(注2)
二十三歳当時の会話でした。彼は文部省に入りました。そして彼は、ジェンダーフリーやゆとり教育の旗手でいます。同類の一人が外務大臣なった時には、私はさすがにささやかな義憤を感じたものです。
私は法学の徒ですが、東大法学部憲法学(元)教授宮沢俊義氏(この先生はフランクフルト・シューレとして令名が高い)門下のイデオログーたちが何を考えているかぐらいは想像できるつもりです。GHQ御用達のフランクフルト・シューレの牙城は簡単には揺るがないでしょう。皇室典範改定の「クーデター」(未遂)騒ぎは確信犯たちの所業なのです。小泉首相が危うく「拉致」を逃れることができたのは、ただ秋篠宮家の親王御誕生のお陰にほかなりません。
我妻栄(この先生もフランクフルト・シューレの令名が高い)教授の民法学のイデオロギー構造を克服しないことには、日本の民族的消滅を回避することはできません。何か大袈裟なことを言うつもりはありません。現民法を流れるイデオロギーは、家族制度否定のそれです。高校教師を定年まで勤めた私には「婦女子」という言葉が「腐女子」に聞こえたのは哀しかった。生徒指導部長という「非行」指導の責任者を十五年間勤めたから、中高生たちの「性の乱れ」には多少は通じている部類だと思います。特殊出生率が一・二を割り、このままでは二〇五〇年には日本人が三千万人減るといいます。人口が半分になる日は遠くはないと思います。私は五十年を待たなくても、この十年の間に日本の「生存」の危機が来るのではないかと恐れます。
二〇〇五(平成十七)年は愛知万博の年でした。ドイツ民謡の歌舞団の一団(約四十人)が、岐阜の私たちの田舎町に民宿しました。通訳にと、私の貧しいドイツ語が狩り出されました。団長のドイツ人が言いました。
「日本とは奇跡の国です。来日以来、犯罪に遭いません………アーバー(しかし)………女子高校生たちの不道徳な格好は理解に苦しみます………」
四十人を相手に通訳一人というのは苦しい。私は日本のドイツ語世代が死滅しつつあるのを実感しました。五年前くらいは医者たちが狩り出されていました。一昨年は、六十三歳の私のみが生存種のようでした。自治体主宰の歓迎会で紹介された私が、「下手なドイツ語ですが、先生が四十人いるから頑張って勉強します」と言ったら、四十人はドイツ語(らしき言葉)を聞いてか安心した表情を見せていました。
ドイツ人が四十人やって来ても、日本の町は変わりはしません。しかし、某国人が四十人やって来るぞとなると、日本人の顔つきは変わります。日本人の数が半分になれば、もうそこは日本ではなくなっているのは確実です。一千万人の某国人が日本に入れば、おそらくは日本は日本でなくなるでしょう。日本の生存の日々は数えられたりなのです。
日本の危機は、民法のせいとは意識されなくても、家族が崩壊し結婚は嫌われ「腐敗した」性娯楽が風俗化しているのです。不倫は風俗にすぎないのが日本です。
しかし、ユダヤ人女性の不倫については、私は寡聞にして聞きません。ユダヤの女性に姦通・不倫はないと私は信じています。ユダヤ人の友人は言うまでもないと言い、まるで動じません。ユダヤ人は祖国を失ったからナショナルなものに「価値」はおかないように見えます。ナショナルではなくインターナショナルなものが「価値」とされます。そのように見ます。本当は見えるだけです。
しかし、日本国憲法を貫くイデオロギーはインターナショナリズムであり、個人の価値の尊重であり、自由平等 等の価値群の肯定擁護そのものです。別の機会に日本国憲法の正体について詳しく書くので、ここでは一点だけ注記しておきます。
私はイデオロギーという語を「虚偽意識」として注記していますが、それには意味があります。マルクス主義には必ず虚偽・悪意が仕組まれています。なぜか。立派な国民性・民族性はユダヤ解放の敵だからです。歴史・伝統・文化に培われた国民性・民族性(ナショナルなもの)はナショナルホームを喪失したユダヤの民には抑圧でしかなかったのです。
搾取に苦しむプロレタリアートには祖国はないとされます。万国のプロレタリアートは団結しなければなりません。女性の解放も、ユダヤ人の解放も、階級社会の全体的解放と共に成し遂げられるとされます。民族ではなくインターナショナルこそが、そして国民ではなく個人・人権の確立こそが、教育の目的でなければなりません。個人を家族制度の奴隷としてはなりません。
秘められた悪意は、こうして崇高な理想の旋律で歌われるのです。
マルクス主義というのは社会科学でもなければ、経済学でもなく、せいぜい社会学のイデオロギー(虚偽意識)にすぎないのです。ある仮説(ハイポネシス)に基づいて社会改革を志向する社会学の一分野がありますが、それに近いのがマルクス主義です。仮説を通り越して虚偽意識というのは、「マルクス主義」なるものはユダヤ人の解放を願望する思想体系が「人間解放」の仮面(マスク)をかぶっているにすぎないからです。
マルクス主義に漂う、どこか黙示録的な雰囲気は偶然ではないのです。共産主義社会とは千年王国であり、プロレタリアートとはモーゼに率いられたユダヤの民でしょうか。ブルジョアジーとは異邦人のことです。ユダヤ人の不幸な天オルソーは、「社会契約論」や『エミール』を著し「人民」解放の語り口で差別に苦しむ同胞の解放のために気を吐きました。アメリカ建国のエネルギーは、ユダヤ人たちの生存への意志と情動に大きく依拠しています。フランクリン・デノラ・ルーズベルトはモーゼの再来とユダヤ人世界では囁かれたものです。彼の先祖は十七世紀にオランダから移住したユダヤ人社会の名門です。ルーズベルトたちが、ユダヤ人のホロコースト(抹殺)を進めるナチス・ドイツを許す筈がないのです。三国同盟の愚を、日本人はまるで知らなかったのです。
マッカーサーは「真っ赤さー」と言われた時代がありました。GHQのピンカーズ(赤いやつ)が持ち込んだマルクス主義の虚偽意識(イデオロギー)を条文化したものが「日本国憲法」です。これらは、民法・教育基本法・男女共同参画法・家族・相続・扶養・税制に至るまで、敗戦日本の骨格・血肉となっています。
安倍内閣が「戦後レジューム」の改革を標榜しましたが、挫折しました。安倍氏に向けられた凄まじい敵意は利権とイデオロギー構造の深部から発しています。
『続日本人が知ってはならない歴史』若狭和朋著(2007年)