ルーズベルトはユダヤ人だと述べました。十六世紀の頃、先祖はオランダにいました。宗教迫害を逃れてスペインから来たようです。十七世紀末にアメリカに移住しましたが、この頃エージェントになったユダヤの「名門」です。イギリスは古くからユダヤ人たちを緩やかに解放してきました。ロスチャイルド家は大財閥として有名です。この存在が示すように、アングロ・サクソンとユダヤは融合していると言えるでしょう。チャーチルはユダヤ人ではありませんが、彼の強固な反ナチスの姿勢にはユダヤ人の姿勢が反映しています。ルーズベルト大統領はユダヤ人だから、もっと直接的です。
ハリウッドはユダヤ人の世界です。ハリウッド映画、演劇で上映、上演されないのは、言うまでもありませんが「ベニスの商人」です。チャップリンの反ヒトラーの真迫の演技は、彼がユダヤ人だからです。
コロンブスがアメリカを発見しながら、コロンプス大陸とならなかったのは彼がスペインのユダヤ人だからです。ジェイコブ・シフのシフとは「船」という意味(ドイツ語)ですが日本人の大恩人です。ドイツ語圏ではユダヤ人は普通名詞を姓に強制されたと書きました。日本人はユダヤ人と連帯すべきだったのです。ひとつは、日本の国益のため、もうひとつは、人間としての連帯です。人種差別の無念さは、日本にいる日本人には痛みが分からないかも知れません。私の友人は肩を叩いてくれたものです。彼の名はペニスに発するものです。底冷えのする差別です。彼は先祖からのものだと昴然としています。「日本人を俺は好きだ。なんでアメリカと戦った」と、言います。彼はアメリカ人であることを誇りとしている良きアメリカンです。
日本は日露戦争に勝利した時、満洲国境に吹き寄せられるようにして集まっていたユダヤ人の大群と、アメリカの日本支援の本質について解析があったなら、昭和の大敗北はなかったでしょう。
アメリカ人たちは時々「ユー・エス・エー」を「ジュー・エス・エー」と発音しては笑います。人種の坩堝(るつぼ)と言われるアメリカは、ワスプ(先出)の国ですが、ユダヤ人たちがエネルギーを発揮している国でもあります。
ユダヤ人たちは国際的空間を生存空間としているから、情報の収集・蓄積・解析については真剣です。
アメリカが日本の外交暗号の解読に成功したのは一九二〇(大正九)年の頃です(ロバート・B・スティネット著「真珠湾の真実』文藝春秋社・一三三頁以下書名は略・数字は頁を示す)。
日本外務省は三カ月に一度の割合で定期的に細かな変更を加えていましたが、その日の内に解読されていました。そして、それらは解析され集積されていたのです。アメリカは、日本外務省の暗号は四種類からなることを解読し 、「パープル」とか「J」などに分類していました(同)
暗号解読に従事する専門家は、ハイスクールを卒業する頃からスカウトされ訓練されて、とびきりのスペシャリスト集団を構成していました。例えばロシュフォート少佐は、一九四一(昭和十六)年には経験豊かな四十一歳の日本暗号解読のスペシャリストに成長していました。数学の得意な高校生は、適性により情報将校の道をリクルートされていたのです。彼のチームは二十年間にわたり、日本外務省の暗号解読に明け暮れました。彼のチームの他に、日本海軍暗号・陸軍暗号の解読の専門家集団が当然に存在していたようです。
同時に「傍受」の専門チームと、傍受基地のネットワークが編成・建設されていきました。
傍受基地は、ダッチハーバー・サンフランシスコ・真珠湾・フィリピンなどを結び、日本の艦船が発する信号を傍受して複数の方位を測定して発信位置を測定するのです。加えて、日本艦船の呼び出し符号、発信符号を解析することにより、艦船の所在を割り出すことが可能になりました。
例えば、空母「赤城」の発信符号、呼び出し符号を把握していれば、「赤城」がどこかにいて、何を発し、何を命じられたかは明々白々になっていたのです。日本海軍の暗号には二十九システムあり(同)、これらはすべて解読されていましたが、この事実は、六十年間、隠蔽されてきました(一三六)。
ヒトカップ湾に終結して十一月二十五日(日本時間 )に出撃し、ハワイに向かったことのすべてをアメリカは把握していたのです。
日本には「暗号は解読されていたが真珠湾とまではバレていなかった」式の議論がありますが、まるで違う話なのです。ついでに言いますが、日本の艦艇のみならず、主な船舶の所在は傍聴と方位測定によりすべて把握されていました。例えば、大和・武蔵に次ぐ三号艦信濃の横須賀から呉への回送は、近くにいる米潜水艦への指示により、世界最大の空母は和歌山沖で事務的に処理・撃沈されました。
アメリカはAからHまで八段階の、日本締め上げの方策を定めて、ステップH(八段階目)には日本が攻撃に出ることを予想し、そして把握していたのです。四五一頁以下「五つの資料群」をわれわれは一読すべきです。マッカラムの『戦争挑発行動八項目覚書」というルーズベルト政権の政策網領を読んで、私は絶句しました。まさに、Hとして石油などの戦略物資の全面禁輸があるのです。八段階のステップアップは、日本政府の政策決定とピタリと添いながら行われています。
近衛文麿首相は、「情勢ノ推移二伴ウ帝国国策要綱」を一九四一( 昭和十六)年七月二日の御前会議で決めましたが、この中に重大な方針決定がありました。「対英米ヲ辞セズ」です。この方針により、七月二十八日には南部仏印進駐を実行したのです。サイゴンや戦略的要地カムラン湾などが、日本軍の手に落ちました。アメリカは御前会議の決定を知っていたので、南部仏印進駐の完了に添って米英蘭の三国は日本資産を凍結したのです。南部仏印進駐の軍事的な意味は、フィリピンやマレー半島、インドネシアなどへの侵攻が可能になったということです。そして、米国・オランダは石油の全面禁輸を断行しました(八月一日)。まさに、戦争の初期設定は完了したわけです。太平洋戦争はハルノートにより始まったものではありません。ハルノートは日本の親米英派を絶望させ沈黙させたものではあっても、戦争の事実上の開始は、日本の南部仏印進駐の時だと言ってよいでしょう。
さらに、近衛文麿首相は九月六日の御前会議で「……十月上旬頃にいたるも(情勢の好転がなければ)……開戦を決定す」と決定しました。昭和天皇が明治天皇の御製

「四方の海みな同胞(はらから)とおもう世になど波風の立ち騒ぐらむ」

を二度も詠唱されたのは、この時の場面です。近衛文麿首相は陛下の詠唱を聞き、日米首脳会談の成功を祈念していたでしょう。そして、石油禁輸の時です。
八月一日の前の段階には石油は全面禁輸にはしないで、必死の日本が石袖をかき込むのを許すのです。時間稼ぎと、支那事変の継続を可能にさせる狙いと共に、開戦に足りる備蓄をある程度許したのでした。
禁輸の全面断行の米国の狙いは対ソ連支援でもありました。
この年の六月二十二日、独ソが開戦しました。ドイツ軍の進撃はめざましく、日本陸軍の中にはソ連との開戦を主張する声も大きかったものです。関東軍特別大演習(関特演)が関東軍の総力と内地からの動員も合わせて、百万を呼号する大演習として行われました。日本政府の視力が正常だったならば、三国同盟を離脱するチャンスだったのです。独ソ不可侵条約を前提に日本は日ソ中立条約を締結していたのですから、日本に無通告の独ソ開戦は立派な同盟離脱の理由たり得たのです。松岡洋右外相は昭和天皇に上奏して、ただちに対ソ開戦を進言しています。しかし、松岡洋右外相こそが三国同盟の成立を推進し、そして日ソ中立条約を締結した当の本人でした。その松岡洋右外相が対ソ開戦を主張しても、そのような条約破りの日本の背信を昭和天皇が裁可されることはなかったでしょう。
そして誰よりも、近衛文麿や尾崎秀実たちが許す筈もなかったのです。松岡洋右外相罷免を目的にした内閣改造が行なわれ、第三次近衛内閣が成立しました。
松岡洋右外相の日ソ中立条約締結には、西園寺公一(尾崎秀実の同志・元老公望の孫)が深く関わり推進したものです。松岡の外相就任と同時に彼は政務嘱託となり、条約締結の旅にも同行しています。松岡洋右のソ連侵攻論に対抗して、尾崎秀実が唱えたシベリア「無用論」が残されています。

一、 シベリアは日本の益にはならない極寒の地である。
二、 資源的にも石油・ゴムなどは皆無である。
三、独ソ戦によりソ連が崩壊すれば、シベリアは日本の手に委ねられる。

関特演がガス抜きであり、日本の北進はないと尾崎秀実・ゾルゲ経由で確認したスターリンは、次のアメリカからの保証を得て極東正面を空にしてジューコフ麾下(きか)の極東ソ連軍団がドイツ軍の前に現れるに至ります。
ルーズベルトは近衛文麿に対して、日本はソ連を攻撃しないとの約束をしてもらえないかと問い合わせてきました。七月五日です。近衛は日本の首相はそのような声明を出す権限はなく、それは外相の権限であり、それが日本国政府の声明となるとして、松岡洋右外相が文書で「そのような可能性すら考慮したことがない」と声明し手交しました。三日後の八日のことです。アメリカ大統領はわずか三日で、日本政府からソ連侵攻の意図はないとの言質を得たのです。スターリンは笑いました。
そこでアメリカ大統領は、支那事変に苦しむ日本は南下してオランダ領から石池を取るしかないことを確信し、アメリカは南部仏印進駐を理由として全面禁輸に出たのです。
支那事変を抱えた日本は南下するしか道はありません。その通りに日本は進みました。
七月二日の御前会議の「対ソ戦については……独ソ戦の推移……を見て」との文言は、九月六日の御前会議には消えていました。
こうした事情をアメリカ大統領はすべて手中にしていたのです。近衛文麿首相の秘書官、牛場友彦は尾崎秀実の仲間であり、親日家として知られていたグルー大使に対して「日本のために」極度に重要な情報を提供するのでした。
話は前後しますが、八月十二日にルーズベルトとチャーチルは大西洋上会議(イギリス戦艦・プリンスオブウエールズ艦上会議)を終え、「裏口からの参戦」(バック・ドア・トゥー・ウォー)つまり、対日戦を約し、「大西洋憲章」として知られる宣言を発しています。
十七日にワシントンに帰ったルーズベルトは、日曜日にもかかわらず日本大使の野村吉三郎と会談して、「太平洋の平和維持に強い関心を抱いている」という意味の書簡を手交しました。八日にはハル国務長官に首脳会談を拒否されていた野村大使は、大統領の言葉に大きな希望を抱きました。これはルーズベルトのポーズでした。
二十八日、野村大使はルーズベルトに会い、近衛首相の書簡を手交しました。読んだルーズベルトは「これはすばらしい」と述べ、近衛首相とは三日間は会談したいと言いました。これは御前会議の決定の「十月上旬を目途として……」を前提にした奸智です。
日米会談は実現しそうに見えました。近衛文麿首相は、日米首脳会談に日本の命運を賭しました。
その夜に野村がハル国務長官と会談すると、ハルはこう切り出しました。
「会談は重要なので、事前におおまかな了解には達しておきたい」
日本は首脳会談の実現に向けて必死になりました。そして運命の日を迎えました。
十月二日です。アメリカ政府は日本政府に対して覚え書きを手交しました。「日本政府は平和的態度を表明するにあたり容易に理解できないようなある種の字句をもってその保障を制限している」という首脳会談拒否の回答でした。
日本側は甲・乙案として知られる妥協案を準備し、そして栗栖大使まで追加派遣して日米和解の成立に必死になっていたのです。乙案は南部仏印進駐の取り消し・撤退まで踏み込んだ土下座に近い案でした。栗栖大使の任務は、三国同盟の破棄を口頭で提示することでした。これらの日本の譲歩は、偏に昭和天皇を筆頭とする日本の親米英派の案出したものでした。日米首脳会談にすがっていた近衛文麿内閣は総辞職しました。東条内閣が成立したのです。
日本はここでも分裂していたのです。九月六日の御前会議の内容は、アメリカは正確に知っていました。暗号の解読もありましたが、通報者もいたのです。名は次に出します。
十一月五日、御前会議において東条英機首相は昭和天皇の意を受けて、開戦時期を二ヵ月ずらして十二月初旬としただけの「新帝国国策遂行要領」を決めていました。アメリカは、日本は十二月初旬に開戦すると確認したのです。
近衛文麿首相の秘書官牛場友彦は、グルー大使に「忠告」しました。日本はアメリカ政府の暗号の一部を解読しているというものです。これによって日本はハル・ノートを知り開戦を決意するにいたるのですが、次のくだりに書きましょう。
ワシントンの日本大使館への指示を傍受していたアメリカは「裏口からの参戦」(バック・ドアー・ツー・ウォー)つまり、ヨーロッパ正面からの参戦は国民の賛成が得られないので、日本をしてアメリカを攻撃させ、アメリカが大戦に参戦する最終ステップに入ったことを確認したのです。スティネットの書(三三六頁 )には、ハワイを目指す日本空母部隊の航路図があります。これを見た時、私は無性に日本が哀しくなりました。中西輝政氏も巻末の「解説」でまったく同じことを書かれています。
FDR(フランクリン・デラノ・ルーズベルト)はハワイには知らせなかったために、二千二百七十三名のアメリカ人が死亡しました(同書・四三二頁 )。ハワイの米海軍司令官キンメル大将・陸軍司令官ショート中将はそれぞれ解任され、日本では大勝利の報に国民は歓喜しました。
『続日本人が知ってはならない歴史』若狭和朋著(2007年)