それは、アメリカの中立法への日本のためらいでした。戦争となれば中立法によって、アメリカが石油などを日本に輸出しなくなると日本は考えました。正式の戦争にすると石油が日本に来なくなるから、「戦争」ではなく「事変」と呼ぶことに近衛文麿は決めたのでした。
アメリカの中立法は、アメリカが他国の戦争に巻き込まれないためのAF(アメリカ・ザ・ファスト)主義の法律なのですが、日本が戦争を宣言しないものだから支那政府も宣言しなかったのです。日本政府の考えていることなどは筒抜けでした。戦争の宣言がなされて正式の戦争になれば、置かれる立場は支那も同じです。アメリカも石油などを支那に売ることはできません。戦争を宜言して、日本は支那を海上封鎖すれば足りるのです。なんのための帝国海軍なのでしょうか。海軍の存在理由は自由通商・自由港の確保にあります。大洋のど真ん中を遊弋(ゆうよく)するのが海軍の目的でもなく、単に艦隊決戦に勝つのがそれでもありません。日本は十万人余の日本人を殺戮しようとした支那政府の企図を明らかにして、宜戦布告をなすべきだったのです。そして一路、南京攻略に集中すべきでした。海軍が出動して日本居留民と陸戦隊を収容し、トーチカ・鉄条網で固めた罠は空爆と艦砲射撃の巨弾の雨で粉砕すれば足りたのです。後知恵の賢(さか)しらを言うなと叱られそうですが、旅順や第一次大戦については、当時こそ湯気の立つような後知恵だったのではないでしょうか。
上海事変というのは、日本人にとっては教訓の多すぎた戦闘でした。惜しまれるのは陸海空一体となった一気呵成の速攻・圧勝の首都・南京制圧、そして迅速な撤兵こそが日本の取る道だったのだと思われてなりません。講和条件は寛大であるしかありません。圧倒的勝利・寛大な講和・迅速な撤兵であるべきです。このビスマルク・モルトケの故事を、ドイツ好みの陸軍軍人が知らぬ筈はありませんでした。これを考えた陸軍軍人は皆無ではありませんでしたが、閣僚は皆無でした。近衛文麿首相ならびに彼のスタッフは逆のことを考えていたのです。恐るべきフロント集団だったからです。彼らの秘めた目標は支那事変の拡大と完遂にあったからです。コミンテルン第六・七回大会決定のおそるべき実践が行われていたのでした。
宣戦布告がないことを奇貨として、アメリカは日本にも支那にも必要物資を売りまくりました。だから日本は支那事変の石油には困りませんでした。支那も同じです。ただ日本の指導者は肝心なことを忘れました。生死の鍵はアメリカの手中にあることを、です。再度言います。日本は国際法で保証された交戦国としての権利を、手中にすべきだったのです。これによって海上封鎖・鉄道封鎖・国境封鎖などの権利を正式に手中にすべきでした。権利であって、実際にやれと言うのではありません。だから速戦・即決の圧勝・撤兵なのです。コミンテルンも中国共産党もこれが一番いやな事態だったと考えます。なぜそうしなかったのでしょうか。
中支那派遣軍司令官松井石根大将は、宣戦布告をしてくれと何度も要請しているのですが、近衛文麿首相たちの反応はノーでした。首相たちは全く別の構想に熱中していました。
そして、それが翌年の「蒋介石政権を相手とせず」という声明となるのです。参謀本部の一課長の意見(石油禁輸の恐れ)が優先されもしました。彼ら少壮軍人クラスの目標は、「聖戦完遂」という合言葉での事変拡大にあったからです。軍の上層部(統制派)の好んだ言葉は、事変完遂による「高度国防国家」完成となっていきます。策源地はフロントです(皇道派は事変に反対でした。二・二六事件が悔やまれます)。
次の章のメインは日本の分裂症ですが、日本の首相や政府は日本の戦争に口出しできなくなっていたのです。統帥権の独立と言いました。これは高校教科書レベルの説明では「政治家は軍に口出しできない」のですが、実際の問題は別のところにありました。
陸軍省は普通の将校の人事は握っていましたが、陸軍大学を出たような参謀は参謀本部の人事権のもとにありました。軍の統帥権は政府になく、陸軍の統帥権は参謀本部にあり、海軍の統帥権は海軍軍令部にあり、普通の士官の ……とまさに日本は分裂していたのです。
蒋介石の上海での戦争挑発はまさに「戦争」なのですから、日本政府は、日本国家としての認識に基づき対処すべきだったのです。統帥権の独立により、日本政府は無力であり事態への認識・対処能力を欠くようになっていたのです。日本亡国の直接の原因はここにあります。日本国家は、すべての知能を傾注して事態の認識と対策に処するのが、通常の国の姿である筈です。
情ないことには日本国家(オールジャパン)の立場から、八月十三日からの上海事変の本質を理解する者が、日本の中枢にはいなくなっていたのです。十月十六日には国際連盟が日本の行動は不戦条約違反との決議を出すのですが、これは、アメリカのルーズベルト大統領の示唆により支那政府が提案したものです。本来なら日本こそが提訴すべきものでした(日本は脱退していました)。
一方、石原莞爾たちが「天津・上海撤退」論を言いました。一種の放棄論です。これは正論に見えるのですが、海軍が反対しました。海軍陸戦隊放棄は海軍の承服するところではありません。問題は「日本国家(オールジャパン)」が不在なことです。すでに日露戦争の時にこの危機は現れていたのですが、児玉源太郎という「奇跡」の人の存在により、日本は救われたのでした。陸海軍を統一的に指導する人物はいませんでした。石原莞爾は満洲事変の英雄であり、折から満洲産業開発五カ年計画が始まったばかりでした。計画成就の上はドイツ軍に負けない軍備が整う筈であり、一九四三(昭和十八)年を期して対ソ連戦を構想していたのでした。あくまでも、石原莞爾たちは、です。
日本の国策でもなんでもありません。陸軍参謀本部第一作戦部長の石原莞爾が己の立場で放棄論を言うのですが、これはもちろん海軍の反対論を呼びました。
侵略とは、どちらが計画に基づき先制攻撃をしたかで決まるのが国際法の基礎なのですが、上海事変こそは支那の日本に対する侵略そのものでした。上海は中国ではないかと言う人は、上海港に停泊している日本の船への攻撃は日本への侵略ではないと言いますか。租界なる日本人居留地は条約により確定した地域であり、住む日本人はなにも侵略者ではありません。陸軍参謀本部の石原莞爾は満洲大事の信念から天津・上海の放棄を言ったのですが、日本国民十余万人と五千人の陸戦隊を放棄せよという背景に、分裂した軍閥という日本亡国の主役の横顔が見えるようです。石原莞爾という人物を支那事変拡大反対の英雄のように持ち上げる向きがありますが、やはり追われる人でした。追った主役の一人が東条英機です。
陸軍参謀本部第一作戦部長というのは、日本の国家意思の実現に身を捧げる人の筈です。
それ以上でもそれ以下でもありません。ならば満洲大事よりも日本大事の作戦計画をこそ立てるべきです。陸海共同の南京攻略、上海の罠は空爆と艦砲の巨弾で粉砕くらいの作戦案は第一作戦部長の頭には浮かばなかったのでしょうか。満洲大事は正論です。しかしそれ以上に支那事変の拡大などは、とんでもない悪手(囲碁の言葉)です。一気呵成の速攻で事態を収束させる作戦こそが、満洲大事と両立可能の戦略だった筈です。惜しまれてなりません。それを言うべき首相近衛文麿は、それをこそ嫌うフロントの虜(とりこ)でした。野に涙あれ、です。
統帥権の独立の名のもとで、統帥権を滅茶苦茶に分裂させた不忠者が軍閥抗争の結果をもたらし日本を滅亡させたのでした。
こうした国家設計は、伊藤博文や山県有朋たちによるものです。彼らの意図を国防・軍事に無知な政治家に、軍事に口出しさせてはならないと考えたからと説く史家もいますが、それは半分の真実に過ぎないでしょう。一つは西郷隆盛の影を無視しています。維新の英傑西郷隆盛は、ただ一人の陸軍大将でしたが、彼は郷党だけを率いて起ち、国軍を率いる山県有朋らに敗れました。伊藤博文や山県有朋たちは、西郷隆盛のような人物に国軍を操縦されてはならないとの意図からこうした国家設計をしたのでした。証拠は軍人勅諭です。
「或は公道の理非に踏迷いて私情の信義を守り、あたら蒐雄の豪傑どもが禍いに遭い身をを滅し」というくだりは西郷隆盛批判です。
内閣総理大臣を憲法外の存在にして、天皇陛下を「輔弼」する国務大臣のみを憲法上の存在とし、さらに、陸海軍大臣も国務大臣だから統帥から疎外して、「統帥権の独立」を規定した長州の足軽(福岡ではなんども私は聞いた)たちの国家思想の貧困が、日本をのたうちまわらせたのでした。せめて日清戦争の時なみに、陸軍参謀総長が「戦時大本営条例」を発動により海軍を統括しておればと悔やまれます。野に涙あれ、です。
伊藤博文や山県有朋たちの師の吉田松陰は、ペリーを刺殺に旗艦に乗り込んだようですが、愛国の至誠とはいえ短慮がすぎると、玄洋社の残党は言っていました。
少し触れておきます。
江戸時代を通して、長崎の警備は福岡藩と佐賀藩が一年交替で担当しました。千人ほどの藩士が出張し警備の任に就きました。それらの経験からか幕末動乱の時にも、福岡藩は公武合体・挙藩勤皇が一貫して藩論の主流でした。藩論は次のようでした。
「日本の真の敵はロシアであり、イギリスやアメリカは、日本に領土的な野心はない。むしろ日本がしつかりしておれば、この二国は日本と手を握るだろう」
「朝廷をいただき『とくせんけ』(徳川家)を中心に日本は開化に邁進すべきだ。倒幕などという内部分裂の時ではない。日本は打って一丸となって開化に進むべきだ」
当時の藩主は、あの島津斉彬の弟の長浦公だった関係もあったのでしょうが、薩摩と福岡は公武合体派でした。島津斉彬の急死の後、薩摩の藩論の急変への反感からか、西郷隆盛にも屈折した感情が福岡士族にはあったようです。西南戦争にも冷淡でした。
「政府に言いたいことがあれば、西郷隆盛は一人で行けばよかとよ。よか若い者を多数死なせて罪の深い男たい」と残党は言っていました。
「熊本城なんか囲んで馬鹿か。本気なら福岡に真っ先に来るべきたい。佐賀も熊本も合流するたい。田原坂なんかで若い者が可哀そうたい」と言葉を次いでいました。
東条英機の曾祖母の家は福岡藩士だったようです。後に祖父の代に江戸から南部藩に移り父・英教は陸大首席でありながら、中将で退役したのは長州閥に疎外されてのことだったようです。東条英機の長州閥への反感は鶴岡藩・石原莞爾にも共通だったようです。二人の犬猿の仲は有名ですが、日本にとっては不幸でした。東条英機の勝子夫人は福岡の人です。
『続日本人が知ってはならない歴史』若狭和朋著(2007年)