日本は日露戦争の勝利によって、確実にユーフォリズム(陶酔・惚け)に陥りました。
その軌跡を確認してみましょう。

一、桂・ハリマン協定の破棄。

二、満洲については日本の特別の権益を認め、米国は日本には干渉しないとの覚え書きの交換(一九〇八・明治四十一年)。

三、米国の企図した満洲ー愛瑯鉄道の建設を日本はロシアとの協議のもとで排除(一九〇九・明治四十二年)。

四、アメリカのタフト政権は更に満洲鉄道の中立化を提案してきたが、英仏も日露の側に立ってアメリカの提案に反対しました。フランスはアジアの利権の確保のために、イギリスもロシアがインドに矛先を転じることを危惧し、更にインド防衛を強化する必要から英仏は協同して日本を支援したのでした 。

五、イギリスは英同盟の対象範囲にインドを加えて第二次日英同盟を締結しました。これによりイギリスは強大化するドイツ海軍に抗して極東海域から主力艦をヨーロッパ海域に回航することが可能になりました。

六、総じて言えば次のような風景が現出していたのです。強大化するドイツに対して英仏協商・日英同盟・露佛協商・英露協商によって対ドイツ包囲網が形成されていたのでした。しかし、東アジアでは日露協商を頼みにした日本とアメリカとの対立が激化し始めていたのです。ロシアには当面の露協商は一時の方便でしかありませんでしたが、日露協商の存在は日米関係の癌であるとの認識は日本には極端に薄かったのです。ロシアは満洲・朝鮮・日本を突破するしか海洋国家への道はないのです。日本が英米と結ぶことこそロシアは万難を排して阻止することを日本の国家理性は認知できませんでした。こうした中で伊藤博文は死にました。

七、アメリカはイギリスに執拗に働きかけ、日英同盟の対象からアメリカを除外することに成功しました。第三次日英同盟とされるものです(一九一一・明治四十四年七月)。この年は支那の地は辛亥革命により動乱の大陸と化していました。日本はロシアと第三次日露協商を締結してロシアと協同してアメリカと対抗する意図を固めていったのです(一九一二・大正元年七月)。

八、日露協商は共通の敵に対抗する同盟へと進化したのに対して、日英同盟は共通の敵を失ったことの結果、単なる親善政治同盟的のものに退化していきました。一九一四年、第一次世界大戦が勃発。日本は英露仏の連合国側に立って参戦。地中海へ艦隊を派遣しましたが、日本の進出の主方向は支那大陸と太平洋のドイツ権益の接収に向けられました。とりわけ二十一ヶ条要求として知られる大陸権益の拡大・確保にアメリカの敵意が先鋭化。ブライアン米国務長官は不承認を通告するとともに激しく日本を攻撃。イギリスも自国の既得権益を大きく毀損することから日本を非難するとともにアメリカの対日圧力を激励。日本の主同盟国の筈のロシアはドイツに大敗(タンネンベルヒ大会戦など)するや、革命により戦線から脱落しました。一方、アメリカは二百万余の大兵力を派遣し、連合国の兵器廠として戦勝の主役としての地位を占めるに至っていました。

九、ロシア革命によりロシアがドイツにブレスト・リトブスク講和条約を乞い戦線を離脱した時にこそ日本の国家理性は覚醒すべきだったのです。シベリア出兵との名のもとにアメリカとともに日本は革命干渉を行いました。この時こそが日英同盟とアメリカとの協調関係の確保が国家生存の道であることを今一度知るべきだったのです。日英同盟の存在がアメリカをして極東における日本の特殊権益を尊重させているのだという原点への回帰が問われていたのでした。日本が主同盟国と勝手に恃(たの)んだロシアは共産主義の国となり、コミンテルンの結成をみて日本は治安維持法を制定する一方で、世界にさきがけて日ソ基本条約を締結したのでした。一九二一(大正十)年十一月、アメリカはワシントン会議を主催し、日英米仏の四カ国条約を成立させ日英同盟は破棄されました。一九一九(大正八)年のベルサイユ条約の批准はアメリカ上院に拒否されました。原因のひとつが戦勝の利の薄さにありました。青島攻撃は確かに日本軍によるものでしたが、山東半島のドイツ権益の本継承に支那以上に反対したのはアメリカでした。山東半島・マーシャル群島・ビスマルク諸島……なぜ日本は自分のものとする以外の発想ができなかったのでしょうか。とりわけマーシャル群島は、アメリカに遠慮すべきでした。

十、かくして、漂流した日本はなんとナチス・ドイツと同盟し、こともあろうにソ連とも同盟し、当然に悲惨な裏切りに遭うのでした。

このように日本は日露戦争の勝利の後は、なぜか「日露協商」の道を取り始めるのです。簡単に言えば恐露の裏返しなのでしょうが、当時の日本には、東アジア・西太平洋におけるロシアと米英の角遂への明晰な認識が成立していなかったのです。これは幕末にまで遡及するでしょう。
ロシア帝国は宿命として陸封されています。北は北極海です。ヨーロッパ正面はバルト海があるとはいえ、ドイツやイギリスの玄関先が重なっています。地中海へはダーダネルス海峡の難関が封鎖しています。出てもそこは地中海です。ロシアは東に進むしかないのです。そして東には蜜の流れる日本があり、太平洋が広がっているではありませんか。
「ウラジオストック」の建設が始まりました。「極東を征服せよ」であって「浦塩」ではありません。イギリスとフランスは、ロシアの東進については日本を同盟国候補と目して、その意思を幕府には密かに通じていました。
ユダヤ人こそが生存を確保する第一の条件を、国際的な視力(情報)にほかならないと考えてきた人たちなのです。日本人は、どうも逆です。逆というか、正義は我にありという確信の確保を優先させる傾向(危険性)がありはしないでしょうか。かくして、さきの大戦で日本は世界を相手に大立ち回りを演じて、そして敗れました。赤道を越えて、日本人は戦い、倒れていきました。
日本海軍は、アメリカとの決戦を「艦隊決戦」と構想していたようです。モデルはバルチック艦隊です。つまりは、日本海海戦です。もちろん決戦海面は日本海ではありませんが、西太平洋を想定していました。サイパン島などのマリアナの海域です。私は、このような想定自体が解せないのです。
なるほど、サイパンの失陥が日本の背骨を折る原因となりました。B29の大群により、日本は焦土と化しました。では、あの硫黄島の鬼神も泣く勇戦は何だったのでしょうか。
サイパン島を発するB29の護衛戦闘機の中継基地、不時着の基地が硫黄島です。戦略的に重要な島はサイパン島です。この巨大な島(硫黄島との比較)に築城し、硫黄島の戦いをなぜ展開しなかったのでしょう。ラバウルに見捨てられた孤島の客の日本軍ですら、東京―岐阜間に相当する四百五十キロに及ぶ地下陣地を築いて米軍の背骨を折ろうとしていたのです。最期の関ケ原はサイパンなどマリアナだと考えはしたようですが、肝心の日本海軍がそうは覚悟しなかったからです。理由は単純明快です。戦闘は島の争奪戦となると構想しなかったからです。戦略で負ければ、戦術的勝利を重ねても戦さには勝てません。
バルチック艦隊が日本遠征を敢行したのは、ウラジオストックがあるからです。日本の陸海軍ともに、なぜウラジオ攻略を構想しなかったのでしょうか。目的地を失えば、遠征は不可能です。日本人は、戦術的にロシア艦隊撃滅を志向し、そしてそれに成功しました。そして、自足しました。それに反してアメリカ海軍は、島を取りながら攻めて来ました。なぜか。
日本の近海に島も港もないのに、ただ艦隊が決戦を求めて来攻はしません。フィリピンがあるとはいえ、日本には台湾も沖縄もあるのです。
満洲・朝鮮の開発・経営は、英米と日本は、五族協和の道を取るべきだったと、私は思います。桂・ハリマン協定の破棄は、私は軽視すべきではないと解するのです。

「国際的な視力」について、饒舌を続けます。
第二次大戦への突入に際して、日本の陸海軍はドイツの勝利を「イフ・たら」の関数分析の基礎にしていました。ならば、日本の戦略的な志向はドイツ勝利に向かうべきです。
死闘するドイツとイギリスの「関ケ原」は、エジプト戦線でした。エジプトでドイツ軍に勝たせることです。日本海軍に何ができましょう。
実は、戦局の鍵は日本海軍の手にあったのです。地中海をドイツ・イタリアに握られていたイギリス軍のエジプト・アラプ方面への戦力維持は、アフリカ経由でペルシャ湾・紅海から揚陸するしか方法はありませんでした。アメリカからの膨大なソ連援助物資もペルシャ湾から揚陸されていました。
マレー沖海戦でイギリス東洋艦隊を撃滅されたイギリスが恐れたのは、インド洋を日本に奪われインド独立の「悪夢」の実現と、ペルシャ湾・マダガスカル島海域の制海権の喪失だったのです。イギリスがペルシャ湾と紅海を失えば、エジプトでのドイツの敗北は避けられたに違いません。ならば、石油を確保したドイツ軍の戦線の分裂は修復され、独ソ戦線の局面は別の展開をたどったに違いないのです。
支那事変の解決に苦慮した日本軍の最大の欠点は、戦術の積み重ねでしか問題を考えなかった点にあります。事変に引きずり込まれた日本の主体的な「敗因」は国際的な視力の欠如にあるのです。とにかく日本の発想は姑息の域を出なかった。大東亜の解放を言うなら、インドの独立が真っ先であるべきです。
独立インドを憐国に配して、蒋介石政権の抗日はあり得ません。
強調しますが、インド洋を制しているのは日本の機動部隊だったのです。ドイツが勝てば、大戦の帰趨は明らかです。第二次大戦の帰趨は、実は日本の手中にあった時期が確実に存在したのです。詳しくは、第七章の「ああインド洋」で書いています。
七章で詳しく取りあげますが、真珠湾攻撃は日本海軍の大失策でした。真珠湾攻撃は不意討ちではありません。日本の意図は強襲です。暗号解読により、この強襲の意図を知ったルーズベルトたちは、ハワイの米軍には通報しなかったのです。哨戒の警告すら歪曲しています。
かくして、真珠湾は「駆し討ち」となったのです。
しかし、華々しい真珠湾攻撃の「成功」は、日本海軍の一大失策だったのです。これは、日露戦争の開戦碧頭の失敗(港外の旅順艦隊への水雷攻撃の失敗)の拡大再生産にすぎません。開戦碧頭に敵主力を壊滅させ継戦意欲を阻喪させるという企図は、日露戦争に少尉補で従軍した山本五十六司令長官の温めた作戦によるものでした。
またしても、日本は歴史の「視力」の獲得に失敗するのです。海戦の歴史のステージは、大艦巨砲の時代の黄昏を日本海軍をして世界に知らしめたのでした。
海戦の帰趨は大和や武蔵の巨砲によるのではないことを、日本海軍はパールハーバーとマレー沖海戦で、米英の誇る巨艦を航空機攻撃による撃沈で知らしめたのでした。
あくまでも仮の用語ですが「視力」ということで言えば、日本海軍は「汝自身を知れ」を裏切ってみせたのです。空母基幹の航空機動部隊の発想は、日本海軍が開発し育てたものです。痛恨事は俺たちの切り札はこれしかない、との徹底した認識が薄かったことです。
「決戦はこれでやる」との大悟徹底がありませんでした。しかし、航空艦隊は日本海軍だけが知る決戦思想を具現した艦隊だったのです。決戦思想を小出しにすることにより、日本海軍は保有していた圧倒的な優位の思想差を自ら放棄していきました。そして敗れました。

以下、話が散文にすぎると、叱られるでしょうか。散文の中に、私は寓意を見てほしいと願います。
明治は偉大だったが、昭和は馬鹿になったという類の言説をよく目にします。本当に明治は偉大だったのでしょうか。いや、正しくは明治の犯した過ちが大正・昭和の「過ち」を準備していたのではないかという疑問が、私を捉えて離さないのです。
そのはしりが、桂・ハリマン協定の破棄です。そして統帥権の分裂です。なぜ日本はひとりであの大陸に出て行ったのか。なぜ小村寿太郎は二重外交の愚を犯したのか。モルガン財閥と一時的に組み、ハリマンやシフたちとなぜ袂を分かったのか。
一九〇九(明治四十二)年、アメリカ大統領にタフトが就きました。この年にハリマンは病死しました。
ノックス国務長官は、この年の十二月に南満洲鉄道の共同管理を提案してきました。日本はあろうことか、ロシアと共同してこのアメリカ提案を葬り去るのでした。
翌年、アメリカは五千万ドルの借款を清国に与え、米英仏独と四カ国借款団を組み、いわゆる「ドル外交」を展開し始めるのです。
一九一一(明治四十四)年、辛亥革命により支那は動乱の大陸と化しました。
一九一四(大正三)年、第一次大戦が勃発。この時には日本はアメリカとの友好関係を失っていました。
『続日本人が知ってはならない歴史』若狭和朋著(2007年)