〇自由の定義

自由という言葉は様々に解釈できるが、我々はこう定義する。自由とは「法律で許されたことをなし得る権利」である。この定義は我々だけに適用されるのである。それは、自由というのは我々がいかようにでも決められるからである。法律は我々の計画に応じてこれを作ったり、廃棄したり出来る。
新聞についてはこうである、現今、新聞の役割は何であるかと言えば、党派の激情や偏狭な軋礫を起こすことで、すべては我々に利益になるのである。新聞は空虚で、不正で、嘘つきであって、読者の大部分は何の役に立つのかと疑うこともある。我々が新聞を締め上げ、これをしつかり綱に繋いでいるのである。
他の印刷物につ いても同様である、なぜならば我々が新聞や雑誌の攻撃から免れても、パンフレットや書物で攻撃されては何にもならぬからである。現在では公表には大きな金がかかるが、我々は逆にこれを我々の政府の有用なる財源になるようにする。それには特別の印紙税を設け、出版業者と印刷所とに保険金を納めさせるのである、そうすると言論機関からのあらゆる攻撃に対して政府を保護することができる。もし攻撃を受けた場合には罰金を科してこれに対応する。印紙税、保険金、罰金という方法は政府の重要な収入になる。もちろん政党の機関紙などは多額の罰金を取られても平気であろうが、重ねて我々に対する重大な攻撃をした場合には今度は発行禁止にしてしまう。我々の政治的確信の権威に触れたなら何人といえども罰を免れない。発行を禁ずるには次の口実を用いる。発行禁止になった印刷物は何らの理由も根拠もなく、いたずらに世論を激発したからだと。我々を攻撃する刊行物のなかにも、特に我々の方で創刊するものがあることに注意せられたい。そういう刊行物が我々の政策を攻撃するのは、我々が修正したいと思っている点だけに向かってするのである。
どのような報道も広告も、我々が眼を通してからでなければ公にされない。世界各地のニュースが若干数の通信社に集められ、その手を経て報道せられるようになってから、すでにその通りになっている。これらの通信社は早晩全部が我々の権力下に入り、我々が公表を許す以外のニュースは出 せなくなるであろう。
今日すでにゴイムのほとんど全部は、我々が眼の先へかけてやる色眼鏡を通して世界の出来事を視ているほどに彼らの心を押さえているし、また今日においても愚かなゴイムが「国家機密」などと言っているものを我々に透視できない国は一つもないようになっている。

〇新聞と出版物の将来
ここで新聞の将来に立ち戻ろう。何人も出版社、書店、印刷業をやろうとすれば免許を得なければならぬことにし、その免許は我々の法律に違反をした場合には取り消し得ることにする。
そうすれば思想を発表することは我々の政府の手による教育手段となり、人民は思い思いの道に迷い込んで、人道的進歩などを夢見る余裕がなくなる。
我々の仲間には、このような空想的な親切は実行不可能なる希望として墓地に持って行き、人民と政府の間に無政府関係を栴えるに至ることを知らぬ者はないはずだ。
進歩、否、正確に言えば進歩思想は何らの制限なく解放運動の種々の体系を出現させた。いわゆる自由主義者は実行においてはそうでなくても、少なくとも精神においてはすべて根本的に無政府主義者である。
彼ら特有の狂的強情から、反対せんがための反対をしながら無政府主義に陥った。
それでもしかし、新聞と出版の問題はゆめゆめ忘れてはならない。すべての印刷物の毎頁に印紙税をかけ、これは保険金で間違いなく徴れることにする。三百頁以下の書籍はその税を二倍にする。
薄い刊行物は小冊子と名づける。こうして最も有毒である雑誌の数を減らすことにし、また一方では著作家が厚い本を書かざるを得なくする。その代わりそういう本は退屈するのと高価なので人があまり読まなくなる。だが、我々自身の出版物は我我の思う方に世論を導くのであるから廉価でたちまち売り切れる。税の圧力で思想的作家は尻込みをするだろうし、処罰の脅威で全作者が我々に降伏する。それにもかかわらず我我を攻撃しようとする者があっても出版の引き受け手がない。それは印刷に付する前に出版業、印刷業者は官憲の許可を受ける必要があるからだ。
これで我々はあらかじめ我々に対する攻撃が準備されていることがわかるから、世に現われる前にこれに反駁することが出来るのである。

〇雑誌と書物の検閲
文学とジャーナリズムとは最も重要な二大教育機関である。それゆえに我々の政府は定期刊行物のほとんど全部の所有主となるであろう。そして独立的新聞の害毒を中和してしまって民衆の上に大きな勢力を有するに至るであろう。
比較的独立した新聞と我々の息のかかった新聞との比率は一対三にする。しかし民衆はそんな事情は考えてもみないから、我々の発行する新聞は巧妙な方法で民衆に我々を信頼させながら反対意見の方を支持する。
こうして我々は敵を引き付けるのである。敵は警戒をしていないから我々の陥穿に落ち、無害なものになる。
主な新聞というのは機関紙的なものである。それらは絶えず我々の利益を擁護し、したがって彼らの勢力は比較的弱い。次には半官的なもので、その役割は我々の方へ無関心の人々および中立の人を引き入れるのである。第三には明白な反対新聞で、少なくとも紙面の一部において我々を攻撃する。
そこで我々の本当の敵はこの反対論を真実と思って彼らの腹を見せてしまう。
我々の新聞はすべて様々な違った主張を持っている、ある新聞は貴族政治的であり、他のものは共和主義または革命的で無政府主義なものもあるが、これはもちろん今の憲法が存続する間の話である。インドのヴィシュヌ神のように、これらの諸新聞は百本の手を持っていて、その一つ一つが世論の各層に衝動を与える。煽動期間にはこれらの手は我々の意見に従って世論を導くことに役立つ。
それは興奮した人々は理屈は考えないで容易に誘導されてしまうからである。馬鹿者は自分の党派の新聞の主張を反映して演説をしているつもりでいるが、何も真実を知らない。それは我々の意見か、または少なくとも我々が彼らに与えたい意見を宣伝しているのである。彼らは同志の新聞について行くと信じつつ、実際は我々が彼らのために掲げている旗についてきている。
我々の新聞陣営が我々の計画を敷衍し得るためには、我々は大なる注意をもって言論機関を組織せねばならぬ。中央新聞局という名目で我々は文筆者の会合を設け、そこに我々の覆面の手先がいて合言葉と符牒を与える。我々の新聞は我々の政策を批判したり、これに反対したりする。もちろん根本には触れずに表面的なことだけである。また機関紙に対しても空砲を放ち、起こった出来事について詳報しなければならんと思っているような点を、補足出来るようにしてくれる。
しかしこれらの方法は必要な場合以外には用いないのである。
新聞が我々を攻撃することは、新聞がまだ自由を失っていないという印象を民衆に与えるのに役立つのである。 それはまた我々の手先が、反対党は意義のない反対説を立てている、それが証拠には政府の政策を批判する本当の根拠がないではないかと説き回る機会を与えるのである。このような手法は一般の注目を避けて民衆に政府信頼の念を増させるのに最良の方法である。この方法によって状況に応じ、政治に関する民衆の感情を激発させたり、鎮静させたり出来るのである。
我々はある時は真実を、ある時は嘘を注ぎ込んで、人を説き伏せたり、逆用したり出来る。ある時は事実を根拠として立論し、またある時はこれに反対したりするが、それは民衆にどんな印象を与えようとするかによって違う。要は深い注意をもって足下の地面を探り、それから足を踏み入れるのである。
我々は常に理屈では敵に勝つ。それは敵が根本的に説明することの出来る新聞をただの一紙も持たないからである。のみならず、我々が新聞界に押しつけた制度のお蔭で、我々は真面目に反駁する必要もないくらいである。また我々は半官紙を用いて、反対新聞に我我が掲げさせた世論の観測気球をも強く否定することが出来る。
フランスの新聞界にはフリーメーソンの相互連帯が成立しており、合言葉もある。すべての言論機関は職業上の秘密で結ばれている。すでに過ぎ去ったものでも、前兆だったものはどんな新聞も命令がなければ秘密を暴くものはない。
誰もこれをあえてしないのは、文学指導者の仲間に入るには、あらかじめ何か恥ずべきことをしたことのあるもので、その後不謹慎なることがあれば、直ちにこれを暴露することになっているからである。この不行跡は極めて少数の人にだけ知られているのであるから、新聞人としての権威は外国までも広がっている。そして民衆の間に名声を博しているのである。

〇新体制
我々の計画は特に地方を抱合し、首都にいる者に対する野心と反対の希望とを激発せなければならぬ。我々は政府に向かってそれらの野望が地方の主張であり見解であるとして現わさなければならぬ。これらの運動は我々自身が主となって鼓吹するのである。我々が公式に政権を獲るまでは、首府は地方の世論の下に置かなければならぬ。言い換えれば、我々の手先が組織した大多数で制圧しておくのである。
大事件になったときには首都は既成事実に対して争うことは出来ない。なぜならば地方の大多数が承認しているからである。
新体制とは我々が権力を獲る前の過渡期であるが、我々がその新体制の段階まで進んだときには、我々はもはや新聞に社会の腐敗記事を取り扱わせないで、新体制はここまで万人を満足させたからもはや罪を犯すものではないと信じさせなければならぬ。もし犯罪があったら、何人も被害者とたまたま通り合わせた証人だけにしか知らせないのである。
[定本]『シオンの議定書』四王天延孝原訳 天童竺丸補訳・解説 成甲書房