明治維新によって藩校はなくなった。明治五(一八七二)年に「学制」頒布がなされ、その時の指令書(『被仰出書』(おおせいだされたるふみ))の中にも「身ヲ脩メ智ヲ開キ才藝ヲ長スル」ことの重要性が指摘されている。そして修身科で「修身口授(ぎょうぎのさとし)」があり、教師が口でよいお話を聞かせることにした。しかし実際には欧米の新知識を与えることに熱心であった。小学校の先生を作るために幕府の昌平黌(しようへいこう)の跡を師範学校にしたが、その指導者はアメリカ人スコットであった。
その後、明治一二(一八七九)年の「教育令」は自由を重んじ、放任をも認める感じであり、授業を視察された明治天皇が「これでよいのか」と心配されたという話も残っている。
それで明治一四(一八八一)年の「小学校教則綱領」が出され、修身が各教科の首位に置かれたが、実際は格言や史実についてよい話を聞かせ、作法を教えることであった。そうしたやり方ではまだ不十分があるということから、憲法発布の翌年の明治二三(一八九〇)年に「教育に関する勅語」いわゆる「教育勅語」が下賜された。この勅語にはここで立ち入ることはしないが、誠に立派なもので、明治天皇側近の儒学者・元田永学(もとだながざね)と、近代派の学者的官僚の法制局長官・井上毅が中心となってまとめた。
これ以降、アメリカ占領軍の干渉があるまで、日本の道徳教育問題は全く安定していたのである。欧米は道徳教育は主として教会がやることになっていたが、日本では宗派学説・洋の東西・時の古今を問わず、万人が認める徳目を学校が教えることにしたのであった。
教育勅語は英・仏・独・漢の訳本も作られ諸外国に配布されたが、どこからも反対・批判はなく、称讃の反響のみがあった。日本の学校での道徳教育は修身と称され、教育勅語に添ったものとなった。
欧米諸国では修身に相当するものは、十九世紀末まで宗教教授であった。宗教と分離した道徳教育は、日本が明治五(一八七二)年の「学制」頒布以来、欧米諸国に先んじ、フランスが一八八二年以来、公立小学校で宗教科を廃止したのがこれに次いでいる。
教育勅語下賜の翌年(明治二四年)の「小学校教則大綱修身ハ教育二関ス勅語ノ旨趣二基キ、児童ノ良心ヲ啓培シテ其徳性ヲ涵養シ、人道実践ノ方法ヲ以テ要旨トシ……」(傍点筆者)として教育勅語の徳目を並べてある。
これは戦前の修身教授の大綱を確定したものであって、その後、字句の修正があったものの、昭和二〇(一九四五)年一二月に連合軍が修身、日本歴史、地理の授業停止と従来の教科書の破棄を指令するまで続いたのである(ちなみにこの連合軍の指令は「ポツダム宜言」違反、国際法無視の命令と考えられる。)
明治三三(一九〇〇)年の「小学校令施行規則」によれば小学校では一週二時間、中学校では師週一時間、高等女学校では三年生まで毎週二時間、四年生以上一時間となっている。私が小学生のころは侮週一一時間だったことになる。修身の時間にはたまに校長先生が来てお話しなさることもあった。中学校の時はもう大戦中であり「修練」、というのがあった。
これは修身と勤労奉仕の働きぶりを一緒にしたようなもので、他の全学科に相当する比重が置かれていたようである。
小学校の修身の時間についての記憶はほとんどない。本書に出てくる鈴木今右衛門の話は、自分の家の近所のことだから驚いたことがあったくらいである。当時の小学校の教科書は修身も国語も国史も似たようなものだったという気がする。ただ四年生以上の修身の教科書の冒頭には教育勅語がついていた。
『国民の修身』渡部昇一(産経新聞出版)