明治の初めにあたって、明治天皇は、世界の文明を取り入れて我が国の発達をはかり公論によって政治を行うという大方針をお立てになりました。それからわずか六十年余りの間に我が国連は非常な進歩発達をとげました。
昔は、国民は国の政治にはもとより、自分らの住む町や村の政治にもたずさわらなかったのです。それが今日では、自分らの住む市町村のことは大体自分らの間ですることになり、また衆議院議員を選挙するなどして国の政治にも参与することになりました。
昔は、寺子屋などで少数の子どもが読み書きやそろばんを少しばかり習っただけで、国民の中には字の読めない者もたくさんありました。明治になってから次第に教育が盛んになり、今日では小学校が至る処にあって、国民は皆一通りの教育を受けられるようになりました。そのほか諸種の学校が備わって、誰でも更に進んで十分に教育を受けることが出来ます。また学問・技芸は我が国に昔からあり来ったものや支那から伝わったものばかりであったが、明治になってから、盛んに西洋のものも取り入れて発達をはかったために、今日では学問も技芸も非常に進歩しました。
初めて東京横浜間に鉄道が敷かれてから六十年経っただけですが、今日では何処へ行くにも汽車を利用することが出来ます。また初めて汽船を見て驚いたのは八十年ほど前ですが、今日の我が国は、汽船の数では英米二国の次に位しています。明治以前には通信は専ら飛脚によったので、ずいぶん不便でしたが、現今では何処にも郵便や電信・電話の設があって、非常に便利に通信が出来るようになりました。
昔は、護国の任に当たったのは武士だけでしたが、明治になって徴兵令が布かれてから、国民は皆兵役について我が国を護ることになりました。それがために陸海軍の備えが十分整って、明治二十七、八年・同三十七、八年の両戦役には、国威を世界に輝かすことが出来ました。
我が国は、徳川幕府が久しい間外国と交通することを禁じていたので、明治以前には余程世界の大勢に後れていました。それがため、外国と交際を開いた時には、大そう不利益な条約を結び、その後長らく苦しみました。
しかし国民はよくこれに耐え、力を合わせて国の繁栄をはかった結果、ついに外国も我が実力を認めたので、我が国は条約を改正することが出来て、外国と対等に交際することになりました。

我が国の人口は、 六十年前には三千余万でしたが、今日では八千万にも及んでいます。これらの国民があまねく教育を受け、国の内外で仕事に励むのですから、将来の発展は一層めざましいに違いありません。
我が国は昔から農業を本とする国ですから、その方面は相応に発達していました。また周囲が海であるから水産業は昔から盛んで、現今では世界で一、二を争う位です。しかし商業は、主に明治になってから進歩しました。昔は商人がめいめいわずかな資本をもって、国内だけで取り引きをしていましたが、明治になってからは商業の会社もだんだん出来て、今日ではその数が一万以上になり、大資本をもって、国内のみならず外国とも盛んに取り引きをするようになりました。また工業の発達したのも明治になってからで、昔は手でしたことをだんだん機械でするようになり、五十年前には工場の数が千余であったのが、今日では数万もあって、紙でも糸でも織物でも大仕掛けにこしらえています。
かように政治・教育・産業等あらゆる方面の発達をはかるために、我が国は種々の施設をしてきました。そのための費用が、三十年前には年額数千万円でしたが、近年では十数億円に達しています。これらの費用は国民が負担するのですから、国民の富も増していることがよくわかります。
我が国は、かような発達の結果、欧州大戦の後には世界の大国の中に列することになりました。我が国をこれまでに盛んにするのは決して容易なことではありません。畢覚、明治の初め以来、天皇御みずから国民をお率いになり、国民も皆一体になって大御心を仰いでつとめて来たからです。しかし現在でも、英・米・独・仏等の諸国に比べて見ると、まだ及ばない所があります。将来我が国が更に発達してこれらの国々と肩を並べて共々に、文明の進歩をはかって行くようにするのは、我らの責任です。
(六年生)

※畢覚…つまるところ、結局
『国民の修身』監修 渡辺昇一