民のため心のやすむ時ぞなき
       身は九重の内にありても

これは明治天皇の御製でありますが、この有難い思召は、すなはち御代々の天皇が我等國民の幸幅をお思ひになる大御心です。我等國民は祗先以来、かやうに御仁慈であらせられる天皇をいたゞいて、君のため國のために盛すのを第一の務としてゐます。
昔から國に大事が起つた場合には、楠木正成や廣瀬武夫のやうな人が、身命をささげて君國を守りました。また平時にあっては、作兵衛・伊藤小左衛門・高田善右衛門のやうな人が、それぞれ農・工・商等の職業に勘んで我が國の富強を増し、中江藤樹・貝原盆軒・圓山應擧のやうな人が、學問や技藝につとめて我が國の文明を進めました。
我等はよく我が身を修めて善良有爲の人となり、祖先の美風をついで、國の大事に際しては身命をさげて、君國を守り、平時に於ては各々その職分を盡て我が國の富強を増し文明を進め、忠君愛國の實を擧げなければなりません。

【現代語訳】
第三課
忠君愛国

民のため心のやすむ時ぞなき
       身は九重の内にありても

これは明治天皇の御製でありますが、この有難い思し召しは、すなわち御代々の天皇が我ら国民の幸福をお思いになる大御心です。我ら国民は祖先以来、かように御仁慈であらせられる天皇をいただいて、君のため国のために尽くすのを第一の務めとしています。
昔から国に大事が起こった場合には、楠木正成や広瀬武夫のような人が、身命を捧げて君国を守りました。また平時にあっては、作兵衛・伊藤小左衛門・高田普右衛門のような人が、それぞれ農・工・商等の職業に励んで我が国の富強を増し、中江藤樹・貝原益軒・円山応挙のような人が、学問や技芸につとめて我が国の文明を進めました。
我らはよく我が身を修めて善良有為の人となり、祖先の美風を継いで、国の大事に際しては身命を捧げて君国を守り、平時においては、おのおのその職分を尽くして我が国の富強を増し文明を進め、忠君愛国の実を挙げなければなりません。(六年生)

※九重:宮中
※楠木正成…建武の新政で活躍したが、南北朝の争いで南朝側に尽くして自決したことから一度は朝敵とされた。明治になり南朝が正統とされると「大楠公」と呼ばれ、忠君として見直された
※広瀬武夫…慶応四(一八六八)年―明治三七(一九〇四)年。日露戟争で戦死した軍人で、「軍神」と呼ばれた。「国民の修身」八三頁参照(後述)
※作兵衛…一七九頁参照(後述)
※伊藤小左衛門…一四七頁参照(後述)
※高田善右衛門…二〇八頁参照(後述)
※中江藤樹…江戸時代初期の陽明学者。近江聖人と称えられた。「国民の修身」一七六頁参照(後述)
※貝原益軒…寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年。江戸時代の本草学者、儒学者。「養生訓」が広く読まれた。「国民の修身」…―六六頁参照(後述)
※円山応挙…享保一八(一七三三)年~寛政七(一七九五)年。江戸時代中期の絵師。「足のない幽霊」を最初に描いた画家ともいわれる。
『国民の修身』監修 渡辺昇一