「般若心経」の中で「色即是空、空即是色」というが、「色即是空」というときの「空」と、「空即是色」というときの「空」は違ったものと考えたほうがよいであろう。
もちろん、「空」にいろんな種類があるわけはなく、「空」はあくまで「空」なのであるが、人間のこころが転回していく過程の上からいうと、この二つの空は違ったものだと考えたほうが筋道が立てやすいのである。
「色」とは「形のあるもの」「この世に存在しているもの」という意味であるが、自分の今のこの在り方を一度徹底的に否定してみようという生き方が「色即是空」である。このときの「空」は、「そうではない、そうではない」と徹底的に自分を否定して、なんにもない状態にまで追いつめるはたらきをあらわしているということになる。
こうして徹底的に自分の在り方を否定して、自分というものが全くなくなってしまうとどういうことになるか。そのとき、もし、信心というものがその人になかったら、その人は絶望的な状態におちこんで身動きできなくなるであろう。
しかし、もしその人に信心というものがあったら、つまり、仏に生かされているという気持ちが少しでも動いていたら、自分というものが全くなくなったというぎりぎりの状況の中から、突然からりと大きないのちの世界がひらけてくるであろう。そして、その大きな仏のいのちの中に、自分のいのちがゆったりと生かされていることを知るのである。これが「空即是色」の風光である。その意味で「空即是色」というときの「空」は「仏のいのちの世界」であるといっていい。高神師は、小笠原長生の俳句「舎利子みよ空即是色花ざかり」をあげて(本書四七ページ)「ほんとうにこの一句は、これから申し上げようと思っている「心経」の精神を、たいへん巧みに言い現わしていると存じます」と言われているが、この句はたしかに「空即是色」の風光をよく言いあらわし ていると思う。しかし、そこに至るまでには「色即是空」の、空しく苦しい戦い、それも、自己自身との戦いがあるわけで、その過程は「花ざかり」などとは夢にも思えぬ灰色の苦しい世界であることを見落してはならぬと思う。
高神覚昇「般若心経講義」 解説 紀野一義(角川ソフィア文庫)