「人生は虚空を遍歴するに似たり」とわたしは考える。「空」でも「虚空」でも同じように思われるが、われわれの受ける印象は「空」においてうすく、「虚空」において強烈である。われわれにとっては「虚空」のほうがはるかに身につまされるのである。それゆえ、山本周五郎の名作「虚空遍歴」が多くの人の心をとらえるのである。山本周五郎はこの小説の中で、江戸浄瑠璃の完成に生涯を賭け、しかも成就することなく北陸路の旅宿でむなしい最後を遂げるひとりの男の逼歴の一生を描いた。その男、沖也はこう考える。
それでもなお生きてゆく。
なんのために、どんな目的があって、あんなみじめなことをしながら生きてゆくのか。
おそらく、あの人たちはなんの目的もないだろう。躄車(いざりぐるま)に乗つて残飯をねだるのも、他人の家のごみ箱をあさるのも、その当人がしているのではなく、生きているいのちに支配されているだけではないか。生きている「いのち」に支配されているだけではないか。生命という無形のものが人間を支配して、あのようにみじめなことをしても死に至るまで生きようとさせるのでほないだろうか、と沖也は思った。
「そこにはもうかれら自身はないのだ」と沖也は独りで呟やいた、「躄車で残飯をねだっているのはいのちだけで、老人そのものはそこにはいない 人間としての老人はもうその肉体から去って、虚空のどこかをさまよっているんだ」
そのとき沖也は、自分の中でなにか変化が起ったように思えた。自分の中からなにかがぬけだしたような、またはなにかが自分の中へはいって来たような、はっきりとは云いあらわしがたいが、心の中に新らしい変化の起ったことは現実に感じられた。
これは今日の人間の生き方にそっくりそのままではあるまいか。毎日判で押したように会社へ出かけ、特別努力するわけでもなく、といって、なまけるわけでもなく、ただなんとなく会社にいるだけというサラリーマンを例にとってみよう。会社の席にすわってなんとなく仕事をしているのはいのちだけで、かれそのものはそこにはいない、人間としてのかれはもうその肉体から去って、虚空のどこかをさまよっているのだ。こんな空しいおもいを、どんな人でも多かれ少なかれ経験しているはずである。人はみな、「おれはどうかな、いのちだけが生きていて、魂はほうり出されて虚空を遍歴しているのではないかな」と、自らをかえりみるべきである。
すなわち「空」は、まず、「空しい世界」「空しい思い」としてわれわれの前に現われてくるのである。
しかし、仏教で「虚空」ということばを使うとき、われわれが虚空という字を見て感ずるような空しい感じのものではない。それは時間と空間を超えた世界をさしている。たとえば、「法華経」の「従地踊出品(じゅうじゅじゅっぽん)」という章には、大地の下なる虚空界に住んでいた人々が、大地の下からわき上がってきて、虚空にかかったとしるされている。この「虚空にかかる」ということが時間と空間を超えた世界に立つことであり、どこへ持っていっても通用する真実がそこにあるということである。だから、仏教でいうところの「虚空」は、空しいものではなくて、非常に力強いおおらかなものなのである。
ところが、仏教の世界がわからぬ人にとっては、つまり、信心というものが決定(けつじょう)していない人にとっては、虚空とは空しいものとしてしか受けとれないのである。
高神覚昇「般若心経講義」 解説 紀野一義(角川ソフィア文庫)