あの『花屋日記』の作者は、私どもに芭蕉翁の臨終の模様を伝えています。

「支考(しこう)、乙州(いっしゅう)ら、去来(きょらい)に何かささやきければ、去来心得て、病床の機嫌をはからい申していう。古来より鴻名(こうめい)の宗師、多く大期(たいご)に辞世有り。さばかりの名匠の、辞世はなかりしやと世にいうものもあるべし。あわれ一句を残したまわば、諸門人の望(のぞみ)足りぬべし。師の言う、きのうの発句はきょうの辞世、今日の発句はあすの辞世、我が生涯言い捨てし句々一句として辞世ならざるはなし。もし我が辞世はいかに問う人あらば、この年ごろいい捨てておきし句、いずれなりとも辞世なりと申したまわれかし、諸法従来、常示二寂滅相一
これはこれ釈尊の辞世にして、一代の仏教、この二句より他はなし。古池や蛙とぴ込む水の音、この句に我が一風を興せしより、はじめて辞世なり。その後百千の句を吐くに、この意(こころ)ならざるはなし。ここをもって、句々辞世ならざるはなしと申し限るなりと」

ほんとうの遺言状
まことに、昨日の発句は、きょうの辞世 今日の発句こそ、明日の辞世である。生涯いいすてし句、ことごとくみな辞世であるといった芭蕉の心境こそ、私どもの学ぶき多くのものがあります。こうなるともはや改めて「遺言状」を認めておく必要は少しもないわけです。
私どもは、とかく「明日あり」という、その心持にひかれて、つい「今日の一日」を空しく過ごすことがあります。いや、それが多いのです。「来年は来年はとて暮れにけり」とは、単なる俳人の感慨ではありません。少なくとも私どものもつ一日こそ、永遠に戻り来らざる一日です。
永遠の一日です。永遠なる今日です。「一期一会」の信念に生くる人こそ、真に空に徹した人であります。

空に徹せよ
げに般若の真言こそ、世にも尊く勝れたる呪いです。最も神聖なる仏陀の言葉です。私どもは、少なくとも、般若の貴い「呪」を心に味わい噛みしめることによって、自分(おのれ)の苦悩を除くとともに、一切の悩める人たちの魂を救ってゆかねばなりません。
空に徹せる菩薩こそ、真に私どもの生ける理想の人であります。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)