十返舎一九の書いた「東海道中膝栗毛」という書物をご存じでしょう。弥次郎兵衛、喜多八の旅行ものがたりです。旅の恥はかきすて、浮世は三分五厘と、人生を茶化して渡る、彼らの馬鹿気(ナンセンス)な行動を読んだ時、全く私どもはふき出さずにはおられません。彼らは、お江戸日本橋をふり出してから、京の都へ落ちつくまで、東海道の五十三次、どの宿でも、どこの宿場でも、ほんとうに失敗のし通しです。人を馬鹿にしたようなあの茶目ぶり、読んで面白いには相違ありませんが、しかしなんだか嬲(なぶ)られているようで、寂しい感じも起こるのです。「とかく浮世は色と慾」といったような人生観が、あまりにも露骨に描かれているので、人間の浅ましさが、まざまざ感じられて、厭な気にもなるのです。道中膝栗毛だからまだよいが、これがもしも私どもの人生の旅路だとしたなら、果たしてどんなものでしょうか。どうせ長くない命だ。勝手に、したい放題なことをして、世を渡るという、そんな不真面目な人生観は、極力排撃せねばならぬのです。いったい私どもの人生は誰でもみんな、ある―つの「使命」を帯ぴている旅なのです。ひょっこりこの世に生まれ出て、ボンヤリ人生を暮らしてゆくべきではないのです。しかし、世の中には人間の一生道中を、用事を帯びているとも知らず、ただうかうかと暮らしてゆくものが、案外に多いのです。果たしてそれでよいものでしょうか。「うかうかと暮らすようでも瓢箪(ひょうたん)の、胸のあたりにしめくくりあり」とも申しています。私には私だけの用事があるのです。人間多しといえども、私以外にいま一人の私はいないのです。私は私より偉くもないが、また私よりつまらぬ人間でもないのです。
所詮、私は私です。私の用事は、この私が自分でやらねばなりません。私以外に、誰がこの私の仕事をやってくれるものがありましょう? だから、私どもは、なにも他人の仕事を羨む必要はないのです。他人は他人です。私は私の本分を尽くすうちに、満足を見出してゆくべきです。したがって、私たちは、決して自分の使命を他人に誇るべきではありません。靴屋が靴を作り、桶屋が桶を作るように、黙って自分の仕事を、忠実にやってゆ けばよいのです。だが、私どもの人生の旅路は、坦々たるアスファルトの鋪道ではありません。山あり、川あり、谷あり、沼ありです。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)
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