仏教の教えも、ちょうど、それと同じです。一切の衆生(ひとびと)には、仏となる素質がある。(一切衆生悉有一仏性二)いや「衆生本来仏なり」で、素質があるのみならず、皆仏であるのです。ただ仏であることを自覚しないがために、凡夫の生活をやっているわけです。浄土他力の教えでいえば、皆ことごとく阿弥陀さまによって救済されているのだ。お互いは一向行悪の凡夫だけれども、お念仏を唱えて、仏力を信じさえすれば、いや、信じさせていただけば、この世は菩薩の位、往生すればすぐ に仏になるのだ、というのですから、その説明の方法においてこそ、多少異なっている点もありますが、いずれも、大乗仏教であるかぎり、その根本は―つだといわねばなりません。

子をもって知る世界
「世を救う三世の仏の心にもにたるは親のこころなりけり」とて、古人は仏の心を、親の心にくらべて説いております。まことに「子をもって知る親の恩」で、子供の親になってみると、しみじみ親の心が理解されます。だが、子に対する親の限りない愛情は、独り人間にのみ局(かぎ)っていないのです。あのツルゲネーフの書いた「勇敢なる小雀」という短篇があります。そのなかにこんな涙ぐましい話が書いてあります。

勇敢なる雀
ツルゲネーフが、猟からの帰り途を歩いていると、突然、つれていた猟犬が、何を見つけたか、一目散に駈け出して、森の中へ入って行きました。まるで犬は獲物を嗅ぎつけた時のように、蹲(うずくま)りながら足を留めて、いかにも要慎(ようじん)深く、忍んで進みました。ツルゲネーフは、不思議に思って、急いで近寄ってみると、道の上には、まだ嘴(くちばし)の黄色い、かわいい雀の子が、パタパタと小さい羽根を、羽ばたいているのです。おそらく、枝から風にゆられて、落ちてきたのでしょう。これを見つけた犬は、今にもその子雀を喞(くわ)えようとします。 すると、にわかにどこからともなく親雀が飛んで来て、まるで小石でも投げるように、犬の口先きへ落ちてきたのです。この勢いに、さすがの犬もおどろいて、後へ退くと、雀はまた元のように飛び去りました。しかし、犬がまた喞えようとすると、再びまた飛びかかってくるのです。こうして母の雀は、幾度も幾度も必死になって、子雀をかばいましたが、しまいには、かわいそうに、もう飛び上る勇気もなくなって、とうとう恐ろしさと、驚きのために、子雀の上に折り重なって、死んでいったというのです。
子雀に忍びよった、恐ろしい怪物を見つけた瞬間、親の雀は、すでに自分の命を忘れてしまったのです。そうして必死の覚悟をもって、勇敢にも怪物に抵抗して戦ったのです。
しかも、なお死んでからも、子雀をとられまいとして、親の雀は、その子雀の上に、倒れたのです。生まれて間もなく実母に死に別れた私は、この物語を読んだ時には自然、涙がにじみ出ました。いまもこうして話していても胸がせまってくるのです。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)