まことに「 井戸のぞく子にありだけの母の声 」です。
親の愛は絶対です。今日の若い連中からは、あるいは頭の古いセンチメントだなんて笑われましょうが、親の情はほんとうにありがたいものです。その親の恩のわからぬ連中は人間の屑です。「親の恩歯がぬけてから噛みしめる」で、若い時分にはそれがハッキリわかりません。でも、だんだん齢をとり、自分が人の子の親になってみれば、誰もそれがほんとうにわかってくるのです。科学的立場からいえば、親の流す涙も、恋人の流す涙も涙に変わりはないでしょう。分析すれば、水分と塩分とに還元せられるでしょう。しかし、涙には、甘い涙も、ありがたい涙もあるのです。悲しい涙もあれば嬉しい涙もあるのです。それゆえ、私どもは、人生のことを、何もかも、すべて科学的な分析によって見てゆこうとすることは、無理だということを知らねばなりません。
さて本文の、

「三世の諸仏も、般若波羅蜜多に依るが故に」

ということは、つまり般若は仏の母(仏母)だ、といわれるように、諸仏を産み出す母胎が般若ですから、般若の智慧がなければ、仏とはいえないわけです。般若あっての仏なのです。『心経』の最初に「観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行ずる時、五蘊は皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したもう」といってありますが、慈悲の権化である菩産、仏の化身である観音さまも、般若の智慧を、親しく磨いて、一切は空なりということを、体得せられたればこそ、衆生(ひとびと)のあらゆる苦悩(なやみ)を救うことができるのです。しかし、般若を智慧と解釈しておりますが、たびたび申し上げるように、その智惹は、そのまま慈悲なのです。般若の智慧は、一度他に向かう時、それはすぐに慈悲となって表われるのです。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)