次に「究竟涅槃(くきょうねはん)す」ということですが、これを昔から、一般に「究竟を涅槃す」」とよませています。しかし梵語の原典から見ましても、「顚倒を超越して究竟の涅槃(さとり)に入る」という意味になっていますから、これはやっばり「究竟涅槃す」とよんだ方がよいと思います。ところで究竟ということは、つまり「究極」とか「終極」とか「最後」などという意味で、最終の最上なる涅槃が、すなわち「究竟涅槃」です。ところでこの「湮槃」ということですが、これは、世間でいろいろ誤解されているのです。しかし、このまえにもちょっと申し上げたごとく、これは、仏教におけるさとりの世界をいったものです。すなわち涅槃の梵語は、ニイルヴァーナで、ものを「吹き消す」という意味です。で、普通にこれを翻訳して「寂滅」「円滅」「寂静」などといっていますが、要するに、私どもの迷いの心、「妄想」「煩悩」を吹き消した「大安楽の境地」を いうのです。「寂滅を以て楽となす」すなわち寂滅為楽などというといかにも静かに死んでゆくこと、すなわち「往生する」ことのように思っている人もありますが、これは決して、死んでしまうという意味ではないのです。いったい世間で「往生する」ということを、死ぬことと混同して考えていますが、往生は決して死ぬことではないのです。古聖は、

「往生とは往き生まれることだ。仏法は死ぬことを教えるのじゃない。死なぬ法を教えるのだ。浄土へ往き生まれることをへ教えるのが仏法じゃ」

といっていますが、ほんとうにその通りです。「往生」ということも、「涅槃に入る」ということも、決して死ぬのじゃなくて、永遠なる「不死の生命」を得ることなのです。したがって、「往生」することが、成仏すなわち仏になることです。仏となることは、つまり無限の生命を得ることなのです。ある仏教信者のお老爺さんに、「あなたのお歳は?」と尋ねたところ、老人は「阿弥陀さまと同じ歳です」と答えたので、さらに「では、阿弥陀さまのお歳は?」と問うたところ、老人は即座に「私とおなじ歳だ」といったという話がありますが、非常に面白いと思います。無限の生命(無量寿)、不死の生命をもった方が、阿弥陀さまです

だから阿弥陀さまと一つになれば、無限の生命を得たことになるのです。したがって、「立往生」とか、とうとう降参して「往生」したなどというのは、要するに、往生に対する認識不足といわねばなりません。ところで「心経」に書いてある

「究竟涅槃」とは、どんな意味かというと、それは「無住処涅槃」という涅槃(さとり)です。「無住処」とは、住処すなわち住する処なき涅槃という意味で、他の語でいえば「生死に住せず涅槃に住せず」という意味がこの「究竟涅槃」です。

「菩薩は智慧を以ての故に、生死(しょうじ)に住せず、慈悲を以ての故に、涅槃に住せず」といっておりますが、これはたしかに味わうべき語です。

「勝れた智慧をもっている菩薩(ひと)は、乃(いま)し生死をつくすに至るまで、恆(つね)に衆生の利益をなして、しかも涅槃に趣(おもむ)かず」

と「理趣経(りしゅきょう)」というお経に書かれていますが、それが菩薩の認瓢です。なるほど仏教の理想は、さとりの世界へ行くことです。仏となり、浄土へ生まれ、極楽へ行くことが目的でしょう。しかし自分独りだけが仏になり、わが身独りが、極楽へ行けば、万事OKだ、というのでは断じてありません。人も我れも、我れも人も、いっしょに浄土へ行こうというのが、真の目的なのです。いや、たといわが身は行かずとも、せめて人を仏としたい、浄土へ送りたいというのが、菩薩のほんとうの念願です。理想です。

 

愚かなる我は仏にならずとも衆生(しゅじょう)を渡す僧の身たらん

 

と、古人もいっておりますが、たとい、自分は仏にならずとも、せめて一切の人々を、のこらず彼岸の世界へ渡したいというのが、大乗菩薩の理想です。だから極楽に生まれ、浄土へ行っても、自分独りが蓮華(はす)の台(うてな)に安座(あんざ)して、迦陵頻伽(かりょうびんが)の妙なる声をききつつ、百味(ひゃくみ)の飲食(おんじき)に舌鼓を打って遊んでいるのでは決してありません。菊池寛氏の「極楽」という小説の中にこんな話があります。あるお婆さんが、望み通りに極楽へ往生した。はじめのうちこそ、悦んでおったものの、しまいには、いささか退屈を感じ出したのです。そして苦しい娑婆(しゃば)(忍土)の方が、かえって恋しくなったというようなことを、巧みな筆で面白く書いていましたが、それはつまり多くの人たちが、顚倒夢想している極楽の観念を、諷刺したものです。真の極楽はそんなものでない事を暗にいったものです。親鸞上人は「煩悩(ぼんのう)の林に遊(いで)て神通を現ずる」(遊煩悩林現神通)といっておられます。「煩悩の林」とは、苦しみに満ちているこの迷いの世界です。で、つまり極楽へ往生して仏になることは、呑気に気楽に浄土で暮らすことではない、再び娑婆へ還(かえ)る事です。しかもこの往還の二種の回向を離れては、少なくとも他力教はないのです。いや、単に浄土教のみではありません。一切の仏教は、ことごとくこの往相(おうそう)と還相(げんそう)との二つの世界を離れてはないのです。因より果に至る(従レ因至レ果)向上門と、果より因に向かう(従レ果向レ因)向下門、そこに仏教の世界があるのです。「因」とは迷える凡夫です。「果」とは悟れる仏陀です。迷いより悟りへ、悟りより迷いへ、凡夫より仏陀へ、仏陀より凡夫への道こそ、仏教の道です。菩薩の道です。しかも登る道こそ下る道です。下る道こそ上る道です。「上山の道は即ちこれ下山の道」です。

高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)