次に第三の真理は「滅諦」です。「滅」とは生滅の滅で、ものがなくなるということです。ただしここにいう滅とは、苦を解脱したさとりの世界、すなわち「湮槃」のことをいうのです。で、滅の真理すなわち「滅諦」とは仏教の理想である涅槃と同じ意味のことばです。ところで、なにゆえに「涅槃」のことを「滅」というかというに、元来「涅槃」の梵語は、ニイルヴァーナで、「吹き消す」という意味なのです。何を吹き消すか、何を滅するか、といえば、いうまでもなく、苦を吹き消し、「苦」を滅することであります。ところが一般にはさようには解釈されないで、かえって肉体を吹き消し、身体を滅すること、即ち「人間の死」とか、「虚無」とかいうことに考えられているのです。ちょうどあの「往生」ということばが、「死」ということ、と同じょうに思われているごとく、「涅槃」とか、「成仏」などといえば、死と同一に考えられているのです。しかし、もともと「死」と「涅槃」とは異なっているのです。人間苦の根本となっている「無明」を滅したことが、この「涅槃」です。
「貪欲永(なが)く尽き、瞋恚(しんに)永く尽き、愚痴永く尽き、一切の諸(もろもろ)が永く尽くるを、涅槃という」
と『雑阿含経(ぞうあごんきょう)』には書いておりますが、とにかく、無明(まよい)の心を解脱して、苦を滅し尽くした境地が、滅諦すなわち涅槃です。あの「いろは」歌でいえば、「あさきゆめみじ、ゑひもせず」という最後の一句は、「寂滅為楽(じゃくめついらく)」という「涅槃の世界」をいったものです。
「あさきゆめみじ」とは、あさはかな夢をみないということです。「ゑひもせず」とは、無明の酒に酔わされぬということです。つまり「酔生夢死」をしないということで、つまり涅槃の世界に安住するその気持を歌ったもので、ボンヤリ一生を送らないということです。
あの謡曲の「三井寺」や、長唄「娘道成寺」の一節に、「鐘にうらみが数々ござる。初夜の鐘をつく時は、諸行無常と響くなり。後夜の鐘をつく時は、是生滅法と響くなり。晨朝(じんじょう)は生滅滅已、入相は『寂滅為楽」と響くなり。聞いて驚く人もなし。われも後生の雲はれて、真如の月を眺めあかさん」
とありますが、「初夜の鐘は諸行無常、入相の鐘は寂滅為楽」などというと、いかにも慰瞑的な滅入ってゆくような気がします。しかし、それはさように考える方が間違いで、暁の鐘の音、夕を告げる鐘の音を聞くにつけても、私どもは、死に直面しつつある生のはかなさを痛感すべきではあるが、しかもそれによって、私どもは今日生かされている、生の尊さ、ありがたさを、しみじみ味わわねぱいけないということを唄ったものです。だから、「聞いておどろく人もなし」では、けないのです。せめて鐘の音を聞いた時だけでも、自分(おのれ)の生活を反省したいものです。「真如の月」を眺めるまでにはゆかなくとも、ありがたい、もったいないという感謝の気持、生かされている自分、恵まれているわが身の上を省みつつ、暮らしてゆきたいものです。鐘の音、といえば、かのミレーの描いた名画に
「アンゼラスの鐘」というのがあります。年若き夫婦が相向かって立っている図です。互いに汚いエプロンをかけて首(こうべ)がうなだれて立っている図です。今しも鍬(くわ)をかついで帰りかけた若い夫が鍬を肩から下ろして、その上に手をのせて、静かにジット首をうなだれています。画の正面は一つの地平線、もう夕露がせまっています。畑の様子はよくわからないが、右寄りの方には、お寺の屋根の頂が見えています。それが夕日(にしび)をうけて金色に輝いています。黄昏をつげるアンゼラスの鐘が夕靄に溶けこんで流れてくるのです。なんともいえない感謝の心に溢れながら、法悦の満足を、両手に組み合わせて、向かい合って立っている年若き夫婦の姿。あのミレーの「晩鐘」を見る時、私どもはクリスチャンでなくても、そこになんともいえない敬虔な気分に打たれるのです。鐘の響きこそ、まことに言葉以上のことばです。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)