その昔、釈尊は人間苦の解脱のために、出家せられました。妻子と王位とをふりきって、敢然として、一介の沙門(しゃもん)となり、そして決然、苦行禁慾の生活に入られました。しかし、六か年に亙る苦行の生活は、どうであったでしょうか。それは、いたずらに肉体を苦しめるのみで、そこにはなんら解脱の曙光(ひかり)は見出されなかったのです。ここにおいてか、最後の釈尊の到達した天地は、実に自我への鋭き反省でした。しかも、一たぴは家を捨て、人を捨て、肉体までも捨てんとした釈尊は、菩提樹下の静観によって、ついに心において復活したのです。「十二因縁一心による」という、無我の体験によって、人間としての釈尊は、まさに仏陀としての釈尊となって更生されたのです。迷える人間の子悉達(しっだるた)は、ついに「因縁」、「無我」の内観によって、三界の覚者、仏陀(ほとけ)として、まさしく誕生したのです。仏誕ここに二千五百余年、釈尊は生まれ、そして彼岸へ逝きました。だが、「因縁」、「無我」の原理は、宇宙の光として、今もなお、燦然(さんぜん)として輝いています。
いや、人間がこの地上に生活するかぎり、未来永遠に輝いてゆくことでありましょう。仏陀釈尊はわれわれに教えています。
「過去の因を知らんと欲せば、現在の果を見よ。末来の果を知らんと欲せば、現在の因を見よ」
と、まさしくそれは偽りなき真理のことばです。ライプニッツのいっているとおり、現在は、実に「過去を背負い、未来を孕(はら)める」現在です。ゆえに、過去の因は、とうぜん現在の結果によって知られるのです。永遠の過去を背負った今日は、同時に永劫の未来を孕める今日です。
今日は単なる今日ではない。まさしく、「永遠なる今日」です。歴史的現実です。現在なくして昨日もありません。今日という現在は、一切の過去を含み、そしてまた一切の未来を卒んでいるのです。
詩人グレークの「刹那に永遠を掴む」というのも、まさしくこの境地をいったものです。ほんとうに詩人のいっているごとく、「昨日は生きた。今日は生きている。明日も生きるだろう」です。生きたのは昨日です。生きるだろうは明日です。 真に生きているのは今日です。昨日の私も私でした。明日の私も私でしょう。しかし、今日の私は昨日の私ではありません。明日の私もまた今日の私ではありません。所詮、世の中のこと、すべては「一期一会」です。一生たった一度きりです。「一生一別」です。「世の中は今日より外はなかりけり」です。昨日は過ぎた過去、明日は知られざる未来です。「中阿含経(ちゅうあごんきょう)」はわれらにこう語っています。
「過ぎ去れるを追い念(おも)うこと勿れ、未だ来たらぬを待ち設くること勿れ。過去は過ぎ去り、未来は未だ来らざればなり。ただ現在の法を観よ。うごかず、たじろがず、それを知りて、ただ育てよ。今日なすべきことをなせ。誰か明日、死の来るを知らんや。 かの死魔の大軍
と戦うことなきを知らんや、かくの如く熱心に、日夜に、たじろぐことなく、住するを、げに、聖者は、よき一夜と説きたまえり」
とかく老人は、「昨日」を語りたがります。青年はえてして「明日」を語りたがります。しかし、もはや「昨日」は過ぎた「過去」ではありませんか。「明日」は未だ来らざる「未来」ではありませんか。老人も青年も、共にまさしく握っているものは、「今日」です。過去はいかに楽しくとも、結局、過去は過去です。未来はいかに甘くとも、所詮、未来は未来です。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)
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