次に第二の句は「衣更え手につく藍の匂いかな」というのですが、この句は、つまり「衣更え」と「手につく藍の匂い」という、二つに解剖してみる事ができます。「衣更え」とは、衣を着かえることで、着ている着物を、ぬぎかえることですから、身体全部に関係するのです。したがってそれは、触覚の世界です。肌ざわりがよいとか、着心地がよいとか、わるいとか、いうのはそれです。「触」とはふれるという字で、英語のタッチに当たります。「手ざわり」だとか「肌ざわり」だとか、いう感じは触れてみなければなりません。次に「手につく藍の匂いかな」ということは、「鼻」の世界です。したがってその対象は「香」です。匂いです。よい匂いがする。ほんとうにいい香りだな、というのはことごとく「森」に属するものです。で、この「衣更え」の一句の中には「身」と「鼻」との二つの世界、およびそれの対象となっている「触」と「香」との二つの境界を表わしていることになるのです。かくて私どもは、この「眼には青葉」の句と「衣更え」の句を通じて、ここに眼、耳、鼻、舌、身の「五根」と、色、声、香、味、触の「五境」との関係を知ることができるのです。そして、この五官の中心となって、これを統一する認識の主体が、つまり第六意識です。この意識が「意根」を依り処として、一切のものを認識するわけです。しかも、この第六意識は、一切の万物を広く認識するという意味で、「広縁識」といわれておりますが、現在だけでなく、過去のこと、将来のことまでも、いろいろ思い考えるのは皆この第六意識の作用です。したがって、この第六識は前五識の主人公です。この主人公がシッカリしておればこそ、眼、耳、鼻、舌、身の五識は命じられるままに、よく働くわけです。「人間は考える動物」だといいますが、この考えの主体はこの意識であるわけです。おもうに仏教の立場からいえば、いったい私どもの認識作用というものは、結局この「根」と「境」と「識」との三つの和合によって生ずるものでありまして、「識」とは認識の主体で、心のことであり、「根」はその識の所依、よりどころ、「境」はつまり所縁、すなわち心によって認識せられる対象であるわけです。しかも私どもの認識を離れて、一切万物は存在しませぬから、「心経」の本文に、「眼耳鼻舌身意もなく、色声香味触法もなく、眼界もなく、乃至意識界もなし」
といっているのは、結局「一切は皆空なり」ということを、くわしく分析して説明したものです。で、頭のするどい人には、はじめから「一切は皆空なり」といえば、すぐに「なるほどそうだ」とわかるのですが、いまだ「空」の意味を理解しないものは、まず「五蘊」の空なることを説き、それでもわからぬものには、「六根」と「六境」の空なることを説明し、さらにそれでもまだ理解し得ないものには、もういっそう詳しく「六根」と「六境」と「六識」の関係を説明したのでありまして、つまりは、「因縁によって作られている、私どもの世界の一切の存在は、ことごとく空なり」ということを、説明したものにほかならぬのです。まことに「因縁」より生ずる所の、一切のものは、ことごとく空です。したがって一切の事物は、皆すべて相対依存の関係にあるわけです。もちつもたれつとは、独り人間同志の問題ではありません。世間の一切の万物、皆もちつもたれつなのです。現代の物理学者は相補性原理といっています。相補性原理とは、もちつもたれつということです。有名なアインシュタインはかつて相対性原理を唱えましたが、もはやそれは古典物理学に属するもので、今日ではすべてのものは、互いにもちつもたれつの関係にある、すなわち相補性原理こそが真実だといわれています。
したがってそれはもちつでもなければ、またもたれつ、もたれつでもなく、あくまでもちつ、もたれつです。まったく「もちつ、もたれつ、互いによらにゃ、人という字は立ちはせぬ」です。宇宙間の一切の事物もそうですが、特に人間はどこまでも、もちつもたれつ、生かし生かされつつあるべきです。しかもそれがとりも直さず因縁の関係です。相対依存の関係です。ところが一切の万物(もの)は、もちつもたれつの存在であるばかりでなく、すべてのものは、ちょうど河の水のようにつねに流れているのです。動いているのです。ベルグソンもいっているように、私どもは同じ河の流れに、二度と足を洗うことはできないのです。水の流れは、つねに昼夜をわかたず、流れ流れて止みません。一度足を洗った水は二度と帰らぬ水です。だが、それはひとり河の水ばかりではありません。私どももまた、つねに変化し移りかわっているのです。昨日の私は、もう今日の私ではありません。今日の私は、もはや明日の私でもありません。したがってこの「万物流転」と「相対依存」とは、まさしく因縁という母胎から生まれた、二つの原理であるわけです。縦(時間的)から見れば万物流転、横(空間的)から見れば相対依存、この二つの原理は、実に疑うことのできない、宇宙の真理です。しかもこの真理に目覚める時、私どもは、そこにはじめて国家、社会、人類の「恩」を感じ、「人生の尊さ」をハッキリ知ることができるのです。自分独りの自分ではない。私独りの私ではない。すべてのものによって養われている私、一切のものによって生かされている自分を、ほんとうに心から知った時、私どもは、そこにしみじみと、今さらながら、恩すなわちおかげさまということを感ずるのであります。ありがたい、もったいない、すまない、という感謝報恩の心は、悠然として、ほとばしり出るのです。したがって、自己(おのれ)の生活に対して、何の懺悔も、反省もなしに、ただいたずらに世を呪い、人を恨むことは、全く沙汰(さた)の限りといわざるを得ないのです。自分の身体にくっついた虱(しらみ)を怨む前に、まず私どもは虱をつけている自己の身体の不潔を反省せねばなりません。しかも一たび「因縁の原理」に目覚め真に「般若の空」に徹したものは、生かばかなざを知ると同時にまだ生か尊さを知るのです。実をいえば、生は、はかないがゆえに尊いのです。「散ればこそいとど桜はめでたけれ」です。散るところに、花の生命があるように、死んでゆくところに、いや死なねばならぬところに、生の価値があるのです。生の尊さ、ありがたさがあるのです。ゆえに空に徹したる人は、生きねばならぬ時には、石に齧(かじ)りついても、必ず生をりっばに生かそうと努力します。生死に囚われざる人は、所詮死を怖れざる人です。死を怖れざるゆえに、死なねばならぬときに莞爾(にっこ)と笑って死んでゆくのです。
ゆえにそれはいたずらに死を求める人ではありません。「死を怖れず、死を求めず」といった西郷南洲のことばは、真に味わうべき言葉だと思います。昔から「千金の子は、盗賊に死せず」といいます。「君子は分陰を惜しむ」といいます。たしかにそれは真実です。寸陰を惜しみ、分陰を惜しみ、生の限りなき尊さを味わうもののにして、はじめていつ死んでもかまわない、という貴い体験が生まれるのです。覚悟(はら)ができるのです。いつも「明日」と同盟する人は「今日」の貴さをほんとうに知らない人です。いつも「明日」と約束する人は、「今日」を真に活かさない人です。
ローマの哲学者ポエチウスは牢獄(ろうごく)のなかで死刑の日を前にして「哲学の慰め」というりっばな本を書いていますが、これに似た話が中国にもあります。今からちょうど千五百年以前のことです。中国に僧肇(そうじょう)という若い仏教学者がありました。彼は有名な羅什三蔵の門下で、三千の門下生のうちでも、特に優れたりっばな学者でありました。しかし、ある事件のため、時の王様の怒りに触れて、将に断罪に処せられんとしたのです。その時、彼は何を思ってか、七日間の命乞いをいたしました。彼は、その七日間に、獄中において、みんごと「法蔵論」という一巻の書物を書き上げました。そして、従容(しょうよう)として刑場の露と消えたということです。時に彼三十一歳、その臨終の遺偈(いげ)は、まことにりっばなものであります。「四大元主なし。五陰本来空。首を以って白刃に臨めば、猶し(なお)春風を斬るが如」

四大元無レ主。五陰本来空。以レ首臨二白刃二。猶如レ斬二春風一。

首を以て白刃に臨めば、猶し春風を斬るが如し。ああ、なんという徹底した痛快な死生観ではありませんか。
けだし、かの若き僧肇こそ、まことに般若の経典を心でよみ、かつこれを身体で読んだ人であります。人間もここまで来なければ、決して大丈夫ということはできません。しかし、私はその臨終の偈が、徹底していることよりも、むしろ獄中に囚われの身でありながら、悠々として「法蔵論」というりっばな一巻の書物を、書き残していったという所に、学者として、いや仏教の坊さんとしての彼の偉大さ、真面目があると存じます。今日、私どもは、この「法蔵論」を手にするたびに、「般若の空」の真の体験者であった僧肇の偉大さを、しみじみと感ずるのであります。そして三十一歳で、従容として死についた彼を偲ぶにつけても、般若を学ぴつつ、般若を説きつつ、しかもいまだ真に般若を行じ得ない自分(おのれ)を省みるとき、私は内心まことに忸怩(じくじ)たるものがあるのであります。「道は多い、されど汝が歩むべき道は一つ」だといいます。私は「般若心経」のこの講義を契機(きっかけ)として、真に般若の道を学びつつ、歩みつつ、如実に―つの道をシッカリと歩んでゆきたいと思っています。
そして少なくとも、「生死岸頭に立って大自在を得る」という境地にまで、すみやかに到達したいと念じている次第であります。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)