次に「空」ということばでありますが、これがまた実に厄介な語(ことば)で、わかったようでわからぬ、わからぬようでわかっている語であります。ただ今、皆さんに対(むか)って、私が、かりに、一と一を加えると、いくつになりますか、と問うたとしたら、キッ卜皆さんは「なんだ馬鹿馬鹿しい」といって御立腹になりましょう。しかし、いったい、その一とはなんですか。
一と一を加えると、なぜ二になるのですか、というふうに、一歩進んでお尋ねした時、果たしてどうでありましょう?
私のただ今ペンをとっている書斎には、机があり、座ぶとんがあり、インキ壺があり、花瓶などがあります。いずれもこれはみな一です。しかし、机が一で、花瓶が一でないとはいえないのです。机が一なれば、花瓶も一です。かくいう私も一です。この私の書斎も一です。
東京も一です。日本も一、世界も一です。だから、改まっていま「一とはなんぞや」ということになると、非常に厄介になってくるのです。しかし、ここにあるこの花瓶と、寸分違わぬ同じ花瓶は、世界広しといえども、この花瓶以外には、一つもないのですから、これはタッタ一つの花瓶です。かくのごとく世界のものはすべて皆タッタ一つ(オンリーワン)の存在です。だから、もしも、この青磁の花瓶と同じ花瓶が、もう一つほかにあったら、二つになるのですが、事実はないのです。したがってなにゆえに、一と一とを加えると二となるか、というきわめて簡単なわかりきった問題でも、こうなると非常にむずかしくなるわけです。あの最も精密なる科学、といわれる数学でさえ、私どもにはすでにわかったものとし て、「なにゆえに」ということは教えてくれないのです。いや「一とは何か」となると、それを説明し得ないのです。
私の友人に辻正次という数学の博士がおります。私は試みに、辻博士に「一とは何か」と聞いてみたことがあります。ところが、博士のいわく、「数学では一とはすでにわかったもの、として計算してゆくのだ」と答えましたが、しかし、たとい一とはわかったもの、として計算していっても、やはり一とは何か、ということを、説明してほしいのです。いちばん安心してよい数学が、こんな調子であります。いわんや、他の科学においてをや、ナンテ申しますと、天下の科学者から、エライお小言を頂戴することになるかも知れませんが、とにかくわかったもの、「自明の理」と思っていることでも、いざ説明、となると容易に説明し得ないのであります。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)
0