今日や明日という日は、それこそなんでもない平凡な一日です。しかし、その平凡な一日が集まって、私どもの人生を作っているのです。したがって、つまらぬどころか、後にも先にもない貴い一日です。昨日を背負い、明日を究める、尊い永遠の一日です。結局、一日をつまらぬ一日にするか、貴い一日にするか、それはつまり私どもお互いの心持です。
心のもち方です。ものそのものが、つまらぬのではなくて、それを見る、それを受けとる智慧袋が小さいわけです。この「心経」に織りこまれている、般若の智慧によるならば、世の中のもの、皆すぺてつまらぬものはないのです。いやすべては互いに裏となり表となり、陰となり、陽となって生かし、生かされつつある貴い存布なのです。まことに、「つまらぬというは小さき智慧袋」です。私どもは、少なくとも私どもがお互いに誰でもが持っている霊性、すなわちこの般若の智慧を磨くことによって、一切のものの生命を、より尊く、よりりっぱに活かしてゆかねばうそだと思います。
波羅蜜多ということ
次に波羅蜜多ということは、般若と同様に、梵語の音そのままを写したものでありまして、原語はパーラミターというのです。ところで、いまそれを翻訳いたしますと、彼岸に到る、すなわち「到彼岸」という意味になるのです。しかし今日一口に彼岸というと、誰でもすぐにあの「暑さ寒さも彼岸まで」という春秋二季の彼岸を思い起こすのです。一年じゅうで一ばんよい時候、春と秋との皇霊祭(春分の日・秋分の日)を彼岸の中日として、その前後三日の間、合わせて七日間を彼岸と名づけておりますが、世間では、時候のよい、暮らしよい時が彼岸だと考えています。しかし彼岸の七日間は時候がよいというので、遊びまわったり、物見遊山に出かけるときではないのです。お寺参りをするとか、お墓まいりをするとか、つまり祖先のおまつりをして祖先の御恩を偲んで、それを感謝するとともに、自分の生活を静かに反省して修養すべき時が彼岸です。「きょう彼岸さとりの種を即く日かな」で、菩提(さとり)のたねをまく日が彼岸です。いったい、仏教では、この現実の世界、すなわち迷える私たちの不自由な世界をば、この岸、すなわち「此岸(しがん)」といいます。これに対して、理想の世界、悟れる自由な世界を称して、かの岸、すなわち「彼岸」といっています。ゆえに波羅蜜多とは、つまり、此岸より彼岸へ渡る事、つまり人生の目的地へ入ること、ゴール・インすることです。したがって、古来、簡単にこれを「度(ど)」とも訳しております。度とは「わたる」ということで、この岸から向こうの岸へ渡ることです。ところで、仏教の理想(さとり)の世界、すなわち彼岸とは、つまり仏陀の世界ですから、彼岸へ到達するとか、彼岸へわたるとかいうことは、結局、仏となるということです。ゆえに彼岸ということは、要するに、仏教の理想、目的をいい表わしたことになるのであります。よく私どもは「仏教とはどんな教えか」と質問されることがありますが、その時私は簡単に、「仏教とは仏陀の教えだが、その仏陀の教えとは、つまり人間が仏になる教えだ」と答えています。仏となる教え、成仏の教え、それが仏教です。ところで、この此岸から彼岸へ渡る場合に自分独りで渡るか、それとも大勢の人々といっしょに渡るかということにおいて、自然ここに、「小乗」と「大乗」との区別が生じてくるのです、小乗とは小さい乗り物、大乗とは大きい乗り物のことです。早い話が、自転車は一人しか乗れないが、汽車や汽船になると、何百人何千人がいっしょに乗って、目的地へ行く事ができるのです。小乗と大乗との関係も、ちょうどそれと同じことです。少なくとも仏教の根本目的は「我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」ということです。「同じぐ菩薩心を発(おこ)して、浄土へ往生せん」ということです。したがって小乗は単数、大乗は複数です。小乗は「私」ですが、大乗は「我等」です。小乗は自利、大乗は自利、利他です。自利とは自覚、利他とは覚他です。自覚は当然覚他にまで発展すべきです。 覚他にまで発展しない自覚では、ほんとうの自覚ではありません。したがって小乗より大乗の方が、ほんとうの仏教であり、民主主義もつまりは大乗主義であるということはいうまでもありません。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)