四柱推命は中国を発祥の地とする、人の命運を推す方法である。中国では、子平、命理、命学、あるいは三命と言われており、四柱推命という呼称は日本独自のものである。
四柱椎命の起源に関して、日本では4000年前とか5000年前といったおおまかな年数を公表している書を見ることができる。また本場中国の文献においても諸説を散見することができるが、残念ながらいずれも根拠が不明確であり、納得のいくものは知る限り―つもない。中国ではまた、歴史上の人物の名を拝借して著者に据え、出版されている書があることもその混乱に拍車をかけている。例えば、「孔子家語」は孔子の著作ではないし、『算命術』という占いの書は戦国時代の鬼谷子の作とされているが、とても歴史に名を残すような思想家の著作とは思えない内容であるし、「三国志」で有名な諸葛亮孔明の著作とされている方術(方位の吉凶を見る方法)の書を見ることもできるが、これまた怪しげなのである。
四柱推命に関わる最も古く、確実な考古学的遺物は、殷墟から発掘された甲骨文字である。
殷(商ともいう)は紀元前1600年頃に滅びているので、それ以前に現在の四柱推命の起源となるものが存在したことは文献考証的に確かであると言える。
そののち現在に至るまでの中国の文献を紐解くなら、萬民英の編著による『三命通會』に言われていることが、ある程度信用ができそうである。萬民英は、16世紀頃、明の時代に科挙という当時の官吏の登用試験に合格後、順調に出世し、御史にまでなった政治家である。御史は現在の日本で言うなら県知事クラスの役職である。
その『三命通會 』巻七の「子平説辮」に引用されている 濯櫻筆記』という歌訣に、四柱推命の現存する最古の書を著わし、命理・命学の祖と言われている徐子平について、次のように述べられている(歌訣とは、技術とか方法論を、端的に言い表わした詩的な文章のこと。)
《子平の姓は徐、名は居易。子平はその字である。東海の人で、別に沙條先生と号し、また
蓬莱斐とも称し、太華西棠峰洞に隠棲していた。子平の方法は、人の生まれたところの年月日時をもってその禄命(収入の良し悪しを含めた運命のこと)を推すもので、中(あた)らないものはなかった。》

「四柱推命学入門」小山内彰 (希林館)より