運
運というものがあるかないかということは、人によって解釈の分かれるところです。たしかに外から見ている限り、運の良い人と悪い人はいるようです。悪いことをした人が発展し、正しい人が恵まれずに苦しむ。こういった例は皆無とはいえず、そこに世の中矛盾を誰しもが感じているところでしょう。しかし運は、当人にまったく関わりなくどこかからやってくるものですか。
運を偶然の産物だという人は「その背後にひそんでいる法則とか原理のわかっていない人だ」とマーフィー博士はいいます。
「大衆とか民族の心の中にはあらゆる恐怖が埋もれていて、それがわれわれを襲ってくる。そんなとき、あなたが永遠の真理の観点から自分自身の思考をしなければ、大衆の心理がそのまま浸透して、あなたに代わってあらゆる考えを行なうことになるだろう。それが飽和点に逹したとき、あらゆる種類の不幸と欠乏と恐怖があなたを襲うのである。人はこれを偶然というだろう。人知を越えた災いというだろう。だがそれはその人が自分を失い、他の人の考えによって否定的な条件づけをされた結果であり、自分自身で考えとをしなかったという点で原因はその人にあるのだ。それは偶然ではなくむしろ必然である」
これがマーフィー博士の運に対する考え方です。つまり偶然というものはない わたしたちは偶然としてある種の出来事を片づけたがるが、いかに偶然と見えようとも、それはきちんとした原因と結果の法則が働いているというのです。
だとすれば、わたしたちはもっと賢明にならなくてはいけない。自分の人生は自分で責任をとらなくてはならない。といって一個の人間はそんなに強くもなく、経験も豊富ではない。そういうときに、この人類数千年の知恵の集積である『易経』を活用すべきであると思います。そこには現代科学をもってしてもなお解明できない神秘的な部分について、理由は説明できないが「こうすればいい」という指針がいくらでもあるのです。
かつてエジソンは、さる有名な学者から「電気とは何か」と聞かれたときに「わたしにもその正体はよくわからない。でも非常に便利なものだから、わたしはこれを利用していろいろな道具をつくろうとしているのだ」と答えました。
いまエジソンの発明は世の中を驚異的に便利にしました。さらにエジソンはあの時代、二極真空管によって今日のニレクトロニクス、コンピュータ技術の端緒まで開いていたのです。 エジソンに電気の正体を聞いた学者は、そのことのみによってしか歴史に残りませんでした。
わたしたちはどっちの人間になるべきですか。易の奥儀をきわめますか、易を人生の指針として、自分の望む人生を獲得しますか。
「マーフィの易占い」J.マーフィ(昭和61年、産能大学出版部)