一つの円から――カタカムナをめぐる思索メモ

聞き覚えがありました。
ずいぶん前、家族の病をきっかけに、いくつかの健康法を学んだ時期があります。その一つが、岡林龍之先生の提唱したアヒムサ健康法でした。薬や器具に頼らず、人が本来持っている「いのちのはたらき」を引き出すという考え方です。
先生は大正十二年、高知の生まれです。戦後は世界連邦の平和運動に携わり、昭和の終わりにアヒムサ会を興されました。アヒムサとは、古いインドの言葉で「不殺生」「非暴力」を意味します。
その先生の口から、カタカムナの話をうっすらと聞いた覚えがあるのです。当時は深く追いませんでした。
今になって、少し調べてみようと思いました。
巻物には、丸と十字を組み合わせた図形の文字が渦巻き状に並び、八十首の歌が記されていた。太古の六甲にはアシア族という民族がいて、高度な文明を持っていたが、天孫族との戦いに敗れて歴史から消えた。
これが、楢崎氏と、その考えを受け継いだ人々の説明です。
楢崎氏は実在の人物です。明治三十二年に生まれ、昭和四十九年に亡くなっています。
けれど、元の巻物は誰も見ていません。 残っているのは、楢崎氏が大学ノートに書き写したとされるものだけです。平十字という人物も、カタカムナ神社も、実在が確かめられていません。
出会った年さえ、証言が割れています。昭和二十四年か二十五年とされる一方、楢崎氏の娘の話では昭和三十年ごろだともいいます。
歴史学の世界では偽書として扱われ、古史古伝を研究してきた原田実氏は、楢崎氏が太古の文明に託して創作した可能性が高いと述べています。
気づいたことがあります。すべての文字が、四種類の部品だけでできているのです。大きな円、円を半分に切った形、縦と横の線、そして小さな円。全部を重ねると、円の中に十字が入り、周りに小円が並ぶ一つの図形になります。
つまり四十八の文字は、一つの円を切り分けた部品です。
十字の仲間、横に切った円の仲間、縦に切った円の仲間と、似た形の家族もはっきりあります。そこには、たしかに設計の手が感じられます。
ところが、音との対応に規則がありません。同じタ行でも、タとテは円、チとツとトは十字でできている。逆に十字の仲間は、カ行にもタ行にもハ行にも散らばっています。
朝鮮半島のハングルなら、子音の部品と母音の部品を組み合わせる規則が、表を見れば分かります。カタカムナの表には、それがありません。見た目は揃っているのに、音とは揃っていない。
表に並んでいる音は、ア行からワ行にンを加えた、今の五十音とほぼ同じ組み立てです。
けれど、奈良時代までの日本語は、今より音の区別が多かったことが分かっています。キやケやコなどに二通りの発音があり、万葉仮名では書き分けられていました。ア行のエとヤ行のエも、平安時代の半ばまでは別の音でした。そしてンという独立した音は、平安時代の音の変化から生まれたものです。
カタカムナの文字は、定規とコンパスで描くような形をしています。手で速く書くのには向きません。半円に小円が付くか付かないかだけで区別する文字も多く、崩して書けばすぐに見分けがつかなくなります。
そして、実際に使われた碑文も古文書も、一つも残っていません。
使われてきた文字は、使われてきた跡を持っている。 かなにはそれがあり、カタカムナ文字にはない。私には、そう見えます。
最初は「意味がない」と言い切りたくなりました。けれど、それは少し違うと思い直しました。言い分けたほうが正確です。
古代の文字としては、意味がない。 四万年前の文明の証拠にはならず、日本語の歴史を書き換えるものでもない。私は、昭和の創作だと思っています。
けれど、昭和の日本で生まれたものとしては、意味がある。
偽書もまた一つの史料だ、という考え方があります。何が書いてあるかではなく、誰が、いつ、なぜそれを必要としたかを語る史料として読む、ということです。
楢崎氏は、戦後の食糧難の中で、土地と作物の関係を調べ、農法を研究していた技術者でした。その人が、すべての音を一つの円から切り出すという体系を作った。
一つの全体から、すべてが生まれる。世界はばらばらではなく、つながっている。敗戦で多くのものが崩れた時代に、そういう世界観を形にしたいと願う気持ちは、分からなくはありません。
そして、それが七十年以上経った今も本になり、動画になり、人を惹きつけている。
あの頃、岡林先生のような健康法の周りで、なぜカタカムナが語られていたのか。薬に頼らず、いのちの本来のはたらきに戻ろうとする人たちにとって、何が響いたのか。
そこには、まだ興味があります。
私は、岡林先生に、戦争のことを伺いませんでした。
大正十二年のお生まれです。大東亜戦争のさなかに、ちょうど二十歳前後を迎えた世代にあたります。後になって先生の戦歴を知り、相当の腕前の方だったのだと思いました。
それほどの方と知り合い、何度もお目にかかりながら、私は健康法のことばかりを伺っていました。先生の過去に、触れようとしなかったのです。
そして、もう一つ、今ならどうしても伺いたいことがあります。
戦場を知る方が、戦後は世界連邦の平和運動に身を置き、やがてご自分の健康法に「不殺生」という名をつけられた。その道のりに、何があったのか。
そこに一本の筋があるのかどうか、私には分かりません。筋があると決めつけるのは、ご本人に伺わずに書く、いちばんしてはならないことでしょう。だからこそ、直に伺っておくべきでした。
先生は、平成十四年に亡くなっています。
聞けたはずの時間は、たしかにありました。そのとき私は、目の前の家族のことで頭がいっぱいで、先生の人生にまで思いが至らなかった。それは仕方のないことだったと、今は思うようにしています。
それでも、悔しさは残ります。
あの世代の方々は、もうほとんどおられません。戦争を体で知る人から、直に話を聞ける時間は、ほぼ終わってしまいました。聞かなかったことは、もう誰にも聞けないことになります。
この場所で、私はずっとそれを続けてきました。大谷選手の記事でも、艦艇の記事でも、同じことをしてきたつもりです。
カタカムナも、同じように扱えばよいのだと思います。信じる話としてではなく、切り捨てる話としてでもなく、なぜそれが生まれ、なぜ残っているのかを問う話として。
一つの円から、すべての文字を切り出した人がいた。その人が何を見ようとしていたのかを、もう少し追いかけてみます。
ただ、それ以上に、今の私に言えることがあります。
話を聞ける人がいるうちに、聞いておくこと。伝えられていることと確かめられたことを分けるには、まず伝えてくれる人の声が要ります。その声は、いつまでもそこにあるわけではありません。
岡林先生に伺えなかったことを、私はこれからも抱えていくのだと思います。

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